長女札幌へ
Yのバイク事件後のことを綴ってゆきます。(前回記事と重複する箇所もあります。)
変化が大きすぎて、メモやらアルバムやらを見なければ時系列が定まりません。
面白みのない記事になりそうですが、わが子たちのその頃の様子を整理して並べておきたく書き残します。
興味が失せた方は、遠慮なくスルーして下さいませ。
2007年8月…バイク事件。
2008年4月…高校卒業後長女Aも札幌へ。
入居先は新琴似のマンションの1階。
この物件は次男の置き土産です。
彼は借りていた部屋をきちんと退去しないまま、放置していたのです。
引っ越し作業が煩わしかったものか、妹と交渉の上そのまま引き渡しました。
地下鉄南北線の終点麻生駅から、徒歩15分位のところに建つマンションでした。
最上階が寿司屋になっていました。(おそらく高級寿司店)
同じ駅から別方向にこれまた10分ほど歩いたところに長男の住む部屋がありました。
これまた、次男が住んでいた物件です。
兄貴に実家を出るように勧めたYは、住んでいた部屋を明け渡し、自分は東京へ出て行ったのです。
その出来事でさえ2007年春のことですからね。
(記事を書くにあたり手にしているメモ書きを見て、改めてこの事実に驚く私。札幌東京の二重生活だったものか???)
kyokoippoppo.hatenablog.com
引越し作業のためそこを訪れた私たち。
昨日までそこで暮らしていたかのような状態の部屋。
しかもYは日差しを嫌い、窓をダンボールで塞いでいました。
1階の部屋なので他の住民の目にもとまります。
不審と不快の混ざる眼差しを向けられていたのではないでしょうか?
当時すでにメンタル&身体の不調に見舞われていた長男も手伝いに来てくれましたが、夕方にはダウン。
ご飯を付き合う余力も残しませんでした。
きょてんてんてん
さてこの物件、デザイナーズマンションとはいえコンクリート剥き出しの内装は寒々しく、良い印象の部屋ではありませんでした。
娘は程なくそこを退去。
自力で次なる物件に移り住みました。(南郷へ)
東京在住だったYは、翌2009年6月のバンド解散のタイミングで札幌へ戻ってきました。
街中の世帯向けのマンションに入居。
今は我が家の愛犬である「ぶうたろう」を衝動買いしたのもこの頃です。彼の懐は温かかったのでしょう。
ストリートファッション紙『CRAQER(クラッケ)』発行。
週一のペースで作り無料配布されました。
12月、その活動が新聞掲載されました。(前回の記事)
2010年冬…兄妹3人が札幌で暮らしていたこともあり珍しく集まり写真を撮っています。
兄妹仲良く!が母親を一番喜ばせるという思いから、その写真を送って寄こしたのです。
こういう発案は、おそらく長女Aのものでしょう。
4月…Yは札幌狸小路に古着屋404を開店。
事務所を兼ねたやはり世帯向けの別件マンションへの引っ越しを考えたYは、妹Aに同居を持ちかけました。
Y自身は一部屋をAに貸すことで、Aは家賃の一部を負担すればよいことで双方の負担軽減になる。
Yの提案は決して悪くはなかったのです。
Aは、そのマンションの西日の当たる一部屋に転居しました。
しかしその目論見は、程なくほころびを見せ始めました。
駅から遠い物件でAにとっては通勤がしにくかったこと。
共に暮らすルールがしっかりできていなかったこと。
事業をともにするMさんの出入りも多く、暮らしにくかったこと。
そんなこともあり、Aは何か月もしないうちに部屋を出ることになりました。
Yとの協議も上手くいかず、もの別れの退去
となったのでした。
そんな折り、長男Hの自作曲がポルトーホールにて発表されることとなり、私たち夫婦はお上りさん気分満載で札幌へ繰り出しました。
Yとお仕事の相棒Mさんが、演奏会を聴きに来てくれました。
シックな出で立ちかたが多い聴衆の中にあって、二人の奇抜なファッションが目立ちました。
その際「地域社会雇用創造事業」の1つであった、起業者への資金支給に応募している話を聞きました。
当時与党であった民主党政権の施策に応募したのです。
さてさて・・・せっかくの来札でしたが、Aは、Yとの溝を残したまま。会いたがらず。
家族が集結することはありませんでした。
その後Yも、Aの去ったあとの賃貸料が厳しくそこを退去。
兄妹とはいえ、いや兄妹だったからか?
人との同居はなかなか難しいのだね!
札幌に兄妹が終結し、「仲良くやっていこう!」
と願った年頭の思いは残念な結果となり、AとYの拠点がめまぐるしく変わった話題でありました。
一方長男Hは、ずっと同じ場所で作曲の勉強を続けていたのでした。
今回はここまで。