ウウム…

 ヤッホー!夏休みに入りました。
夜に雨が降り、朝は止んだものの、湿った空気が淀んだまま残っております。北海道らしくないじめついた天気です。
気温上昇の前に庭仕事を少々。あとはまるっと自由時間です。
何をするもしないも自由。
そんな自由の中から、何をチョイスしましょうか?まずは、「はてな町内」の皆さんの記事を訪問いたしましょう。

ウウム・・・・

 そしたところ、uwisizenさんのこちらの記事に立ち止まることとなりました。

uwisizen.hateblo.jp
花壇の草取り活動の記事と共に、福島第1原発処理後の汚染水について書かれてあります。

汚染水の海洋への放出は、すでにカウントダウンが始まっている状況です。
どこにもやり場のない汚染水が満タンとなれば、放出するしかないのだろう、モヤモヤが残るもののそのように思っていた私です。
国際原子力機関IAEA)とやらも、問題無しのような判断を下し、それに対する意見など持ちようもない私は、「そうなのですかい」とそれを右から左へと聞き流していたのです。

が、そんなニュース後程なく、北海道新聞に掲載された尾松亮という方の意見が目に止まりました。
「ウウム…」と立ち止まり、記事を切り抜きました。
しかし、切り抜いたまま放置。
そのまま停滞していました。
だって「ウウム…」と感じることしかできないのですもの。

 先日読み終わった『堤未果ショック・ドクトリン』の本についても同じです。
「ウウム…」
と心で小さくうなりながら、記事にもせず図書館に返却した次第。
 

常に付きまとう賛否

 1つの物事に常に賛否は付きものです。
その中から、さて私は何を信じて拾い上げれば良いのか?
さらにその根拠は?
となると、何も確かなものを持たなたいのです。
どうあれ、目についた誰かの意見により掛かるか、さもなければ全てを遠ざけて、見て見ぬふり、成り行きに任せるしかありません。
何が確かか分からないところへもってきて、私が何を思おうと思わなかろうと、世の中は変わらないという諦念が心の中を占めています。
だから、そうしておいて、私は庭仕事をし、友達とおしゃべりを楽しみ、布をいじったり、心地よい本だけを追い、自分の生活を楽しめば良いのです。

私のその基本スタイルはきっと変らないでしょう。
しかし、
そのように暮らしながらも、やはり気になるものには目を止めて、流れの中で引っかかったものには足を止めたりもするのです。
そのきっかけが、今朝読んだuwisizenの発信だったということ。またそれに寄せられたA0153さんのコメントだったのです。
お二人の発信により、切り抜いた新聞記事についてせめて書き残しておこうという気持ちが生じました。

と、ここまでが長い前置きのようですが、ここまでが、「私」自身の文章なので、割愛することはできません。

ここから先の記述は、人さまのもの(尾松氏)の意見の要約、及び貼り付けです。



まずは、こちらの記事(尾松氏の言説を道新編集委員がまとめたもの)の要約を。
新聞記事の切り抜きをそのまま貼り付ける行為が、引用としてまかり通るのか?心配が残りますので要約してお伝えします。

 福島第一原発の汚染水処理後の水を海洋に放出することについて、国際原子力機関IAEA)は、
国際的な安全基準に合致」すると評価しました。
それを受けた岸田首相は、「海洋放出の安全性は科学的根拠に基づくもの」として、その決定の正当性を主張しております。
しかし、尾松氏は重要な基準の1つといえる、
「正当化(Justification)」に関して、IAEAは放棄していることを指摘しています。

正当化とは、「実施される行為によりもたらされる個人や社会の便益が、その行為による被害(社会的、経済的、環境的被害を含む)を上回ると確認すること」
で、それに関する評価をIAEAは放棄していることが、報告書の19ページにはっきりと認められるというのです。

国際基準の適合性の評価を要請された時にはすでに、海洋放出が決定された後のこと。
「正当性」に関する評価は行われなかったのでした。

尾松氏は、「これでは国際基準に合致」とはいえないと断じます。
「正当性」が放棄されている事実が報道がされていない現状にも強い疑念を抱いておられます。

そもそも処理水放出による便益などあるのだろうか?

尾松氏は問います。

政府は廃炉作業を進めるためと主張しますが、廃炉の完了形を政府は定めてはいないというのです。
(kyoko知りませんでした。)

溶け落ちた核燃料(デブリ)が取り出せるのかどうか?
それすらも分かっていない状況。
(kyokoそれに関しても無頓着でした。)
取り出せたとしても持っていく場がない。
汚染水タンクよりも危険なデブリ保管庫を作るというのが、地元の便益と言えるのか?

便益は原発推進派側にしかないのだ。

飲料水にも含まれるトリチウムとやら、それについてのWHOの基準は確かにあるそうです。
しかし、
放射性物質に汚染された水」を海に流すための国際基準は無い!
と尾松氏は断じます。

他国の原発や再処理工場から排出される処理水について、政府は引き合いに出すものの、
デブリに直接触れた水が海洋に放出されるのは公にされている事例としては世界で初めてのことなのです。
つまり、今後の漁業資源や人体に及ぼす影響は、未知のものだということです。
このあたりを読むと、
政府が、”だから安全”と指し示す「処理水」と、尾松氏が指すものが異なっているように感じます。

IAEAが評価を放棄した海洋放出のプロセスもきちんと検証されるべきだ。「科学的」という言葉を振りかざして「理解」を求め、異論を封じ排除するような決定は民主主義社会のやることではないと私は思っている。

記事はこのように締めくくられています。

聞き手は道新、編集委員の関口裕士氏。

関口氏は長らく原子力発電に関わる取材をし、共著ながらこのような本も出しています。

つまり、お二人は原発反対の立場。
だから、この記事そのものもそれに偏ったものである。
と言えなくもありません。
また紙面の関係にもよりましょうが、代替え案はここでは示されておりません。
先に書いたように、定まった自分の考えなど持ち合わせていない私ですが、
科学的根拠とか、飲用水にも・・・とか、他国でも・・・という言説は耳に入ってきたものの、このような他の意見や考え方、重要な事実などがシャットアウトされていることは実感としてあります。

隠されていること。
知らされない事実にも目を向けていくことは大事かもしれませんね。
知ったところでどうしようもなく、知ったことが真実か?も分からない一般ピーポーの私。
でも、時々立ち止まってみようと思います。
こちらは貼り付け大丈夫でしょう。貼っておきましょう。
note.com

こちらから一部抜粋
日本では海洋放出決定に際して、経産省が「ALPS処理水」の定義を変えた。「トリチウム以外の核種について『環境放出の際の規制基準を満たす水』のみを『ALPS処理水』と呼称することとします」という。この定義は「どこで生じた水なのか」という起源規定を含んでいない。この定義で放出を認めれば、事後的に「処理水」の範囲を無制限に広げることができてしまう。極端な話、別の原発の除染作業で生じた水を持ってきてALPSで処理後に放出することも解釈上は可能だ。
 そしてこの「ALPS処理水」の定義自体、いつでも政府の都合のいいように変更できる。ランカスター市の協定から学び、我々も「処理水」の範囲を法的に規定する必要がある。

「ALPS処理水」とは、東京電力福島第一原子力発電所の建屋内にある放射性物質を含む水について、トリチウム以外の放射性物質を、安全基準を満たすまで浄化した水のことです。
長い記事の最後になり恐縮ですがuwisizenさんの記事からの引用と、A0153さんの関連記事もここに残しておくことにいたします。

「代替案」は、原発敷地の地中に「凍土壁」よりもっと深く、 総延長約4キロの「広域遮水壁」を造り、地下水を集める井戸を複数設置する。
それでもできる汚染水。例えばトリチウム放射線半減期は、約12年。
その倍の24年間保管したら4分の1の線量にうすめることができる。
線量がひくくなるまで保管する。その間に、除去技術はもっと進歩するだろう。
こんな「代替案」があるって、知っていました?

(uwisizenさんの記事より)
こちらA0153さんの関連記事
a0153.hatenablog.com



夏休み初日頑張りました!
明日は同僚と会食&おしゃべりの予定です。