空を飛ぶ夢

 はじめに…パソコンからのはてなブログへのログインができなくなってしまいました。

スマホ下書きから直の公開です。
この困った出来事に対しては後に助っ人募集記事を書くかもしれません。



 連休三連勤の後、いつもの職場で4連勤。
そしてやって来た週末はそのまま二連勤…のつもりでいましたが、2日目日曜日は、急遽休みとなりました。

今季一番の冷え込みが予想されており、実際に当地の朝の気温は2度でした。
湖もしけ気味とのこと。
更には小屋にストックされた牡蠣も、昨日の内に全て選別できたので小休止となったのです。
久々の休日です。

 記事を書くとしましょうか。

まずはこちらを!


え?
牡蠣ですよねえ。
それで…?

と思われますかね。

ほらほらkyokoのやることだよ。
よおく見なされ。
お分かりか。

牡蠣を手に持ち、電動ドリルで表面をきれいにする仕事をしながら、私は
「おや?」
と思い手の内にあるものを眺めたのです。
龍の顔に見えないかね?
貝の先端のふたつの凹みが鼻に見え、その奥のふたつの溝が目に見えました。

『牡蠣小屋で見つけた龍さま』
記事のタイトルまで浮かび心のなかでほくそ笑む。
しかし、デロデロどろどろ汚れだらけの状態で直ちに写真に収めることは不可能です。
私はそれを自分用の秤の陰に隠し、10時の休憩時間を待ちました。
休憩と共に、作業台の簡単清掃が始まります。
外は冷たい雨が降っており先週のように外でおやつを食べることはできないからです。
それぞれが、籠を移動したり、水をまいたりと動き出す中
「ごめん!数分の勝手を許して!」
とお願いして、ゴム手と中手(綿の中手袋)を外しスマホでパチリ!

いかがでしょうか?
龍のお顔に見えますでしょうか?

龍の形の雲を見つけること、また今回のような龍の顔のような牡蠣貝の発見も私を喜ばせます。

実際にそれが、喜ばしいことなのか?
喜ばしいことにつながっているのか?
私の気持ちに作用するだけなのか?
そのあたりのことは、分かりません。証明のしようもありません。

夢の話

 同じことが、夢見にも言えます。
ということでここから先は夢の話。
人と共有するのは難しいとは知りながら、私はここに書き残さずにはおられません。
これに目を留めておられる方々よ!
この先は自分のための備忘録です。読み飛ばして下さってかまいませんからね。

離陸
10月15日の夢。
飛行機に乗っている。
隣には小さな子ども。(私の中のチャイルドか?)
窓は大きく広く外が見渡せる。
飛行機は動き出す。
「今浮き上がるよ」と隣の子どもに声をかける。
フワリと機体が浮き上がる。
その瞬間を体感する。

 空に浮くという夢は貴重なれど、最近はじんわり浮遊するところ止まりで、浮上の醍醐味をとんと味わってはおりません。

記事こそ書いておりませんが、私のスピリチュアル探訪は続いております。
小林正観氏は
「思い」を持たないことを勧めた方ですし、
エドガー・ケイシー
「自己を神の内に手放す」
という言葉を残しておられます。 光田秀氏は、その実践をすることで歓喜の国の住人となったとか。

いやいやいや…
「思い」を持たないなんて私には無理な話。
これは私に限らずでしょうがね。

私が「思い」を手放す時間があるとするなら夢の中位なのです。
その時間の中で、高次の存在とのとの交流はできないものか?と思う(との思いを持つ)私なのです。
そして空飛ぶ夢を見ることは、それに応えていただけたと受け取れるひとつのシチュエーションというわけ。
15日の夢は「離陸」の瞬間を味わうものとしてありがたく受け取りました。

10月19日
道を彷徨う途中で飛翔。
久しぶりに空に急上昇する感覚を伴うものでした。
私は手に持つスマホを手放しました。指からスマホの重みが無くなる瞬間もリアルに感じました。続けて財布の入ったトートバッグも手放しました。
夢の中では、私は「執着」を手放すことができるのです。
執着を手放した私。
もっともっと空高く!
と願ったとたん人工的な屋根が上を塞ぎました。


今朝方の夢10月20日
昨晩も就寝前に、良い夢に恵まれますようにと願いながら床につきました。
ふと目を覚まし、
もう朝か?
夢には恵まれなかったなあ、と思いながら時刻を確認したところまだ深夜の2時台。
もう一眠りできました。
そして見た夢。
空を飛ぶ夢は、道に迷うところから始まることが多いのです。
昨日もモノクロのもの寂しい駅の周辺で道に迷うところからの飛翔でした。
素晴らしい体験。
空を駆け巡りました。
風を感じ、自由を感じ、恵みを味わいました。


少しずつグレードアップした、夢の中の浮遊体験。

私は大切に心に抱きしめます。


生きてゆく力にします。

ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。