何を書こうかな?
滝川へのお出かけブログをアップ後、何を書こうかな?と迷っておりました。
せっかくの週末なので何かしらアップしたく、
「グノーム、ウンディーネで止まっている妖精ネタの続きにしようかな?」と思ったり、
「しばらく離れている教育ネタにチョイと戻って、学校現場の卒業式に関わることを書こうかな?」と思ったりしていました。
でも、なんだか自分の気持ちが乗ってきません。
妖精ネタは、自分との接点を何も持っていないと感じましたし、
卒業式ネタとなるとやはり重い。その覚悟が十分とはいえない私がおりました。
ぼんやりと「どちらに梶を切ろうかなあ。」
と考えていた金曜日の朝でした。
一本の電話
その日の夕方TELが鳴りました。
全く馴染みの無い声が、私の名を呼びました。
今、時間はありますか?と尋ねてきました。
「私ですけど、どちら様なの?」
相手は
「○○の娘の○○だ。」
と名乗り私は
「ああ、いとこのTちゃんだ。」
と分かりました。
彼女と交流を持っていたのはせいぜい私の小学生時代までで、その後会ったのは11年前の母の葬儀の際でした。
高齢となった伯母と共に通夜葬儀に参列してくれたのです。
その伯母さんが亡くなったということでTELをくれたのです。
亡くなったのは一月以上も前のことで、通夜葬儀も終わっており、明日が納骨だとのこと。
母親を見送った後の不思議な興奮やら喪失感が彼女の中に色濃くあることが、感じられました。
お母さんありし日の思い出の中に、我が母の存在が大きく、「とにかくきょうこちゃんと話がしたい」という思いに駆られて、電話をしたというのです。
別の叔母さんからうちの電話番号を聞き、かけてきてくれたのです。
「鶴見のねえちゃん」
彼女の思いはよくわかります。
私も母が亡くなった後は、それまでの日々を何度も思い出し反芻したものです。
彼女の家は、母の実家でもありました。
伯母さんは九人兄弟の長男の嫁として嫁いできた人だったのです。
母は「鶴見のねえちゃん」
と呼んでいました。
母の父親は大変厳しい人で、お酒を飲んでは荒れる人だったようです。
私にとってのじいちゃんにあたる人ですが、親しんだり話したりした記憶はありません。
亡くなったのは私が小学生3年生ころだったでしようか?それはたくさんの花輪が道に並んでいたことを覚えております。
外にどでかい花輪が並ぶ葬儀はいつからか目にしなくなりましたね。
葬儀の形は今後もどんどん変わっていくことでしょう。
そう、鶴見の伯母さんは、気難しいお舅さんがいて、たくさんの小姑がいる家に嫁いできた人だったのです。
母はよく
「鶴見のねえちゃんは大変だ。」
と言っておりました。
そういうねぎらいの気持ちは伯母さんにも伝わったらしく、Tちゃんは、
「母はちいこばちゃんが一番優しくしてくれたと言っていたんだよ。」
と涙声になって伝えてくるのでした。
ちいこばちゃんという呼び方・・・・・Tiikoobatyanのoが2つ並んだところをつなげる呼び方が、何とも下町の本家で育った風情を醸し出していて、私の耳に懐かしくひびきました。
彼女との疎遠だった年月などまるで無かったかのように話をしたのでした。
命日
我が家では昨年末に夫の父親を亡くしました。12月27日のこと。
kyokoippoppo.hatenablog.com
私の母は11年前の4月28日に亡くなりました。
後に残す夫ことをやたら心配しておりましたが、父は母の死後一年も経たずに、お風呂の中で心筋梗塞により亡くなりました。
絶命していたのは1月27日だと思われますが、命日は遺体発見の28日となりました。みな月命日が近いねと話していたのです。
kyokoippoppo.hatenablog.com
そしてTちゃんの話によると、
「鶴見のおばちゃん」が亡くなったのも1月28日だとのこと。(我が父の命日と同日)
さらに、連続ドラマがやっている朝の時間だったというのです。
(我が母の亡くなった時間と近い)
11年前のその時間、Tちゃんと伯母さんは、はっきりと「ねえちゃあん」と呼ぶ母の声を聞いており、確かに母はその時間に亡くなっていたのです。
「嘘じゃないよ。私たちうわあと鳥肌立ったんだもの。」
母の葬儀の日、火葬場で待つ時間にTちゃんはそう話してくれたのでした。
同じ月命日の同じような時間に伯母さんは老衰により亡くなったのでした。