手放す前に目に入った文章

お片づけ

 昨年の10月は「お片づけ」にいそしんでおりました。
こんなことがきっかけです。
kyokoippoppo.hatenablog.com

捨てることが苦手なので、がんばったつもりでも次男と長女からすれば
「どこ片付けたの??」
という印象だったようで年末はこの始末。
kyokoippoppo.hatenablog.com

また10月が巡ってきたので、超マイペースながらお片づけを始めようと思っております。(気がつけば10月も半ばですが・・)
何度も繰り返しますが、超マイペースです。
断捨離とは呼びません。
微々減捨離

●不用の紙を探し出して捨てる
●「いつかやろう」とストックしてある布類を整理する。(まだ捨てない!)
●もう着ないと判断した衣類を刻んでウエスにする。(すぐ捨てない!)
●「そのうちやろう」思いつつ積んである縫い物を、少しでも進める。
●不用の雑誌、本を捨てる。
●「そのうち出品しよう」と思いつつ手をつけていない物品や本などをメルカリに出品する。

こんなところですので、ビフォーア・アフターのような変化は見受けられませんが、わが気持ちはすっきりするのです。
この程度ですっきりする我が性分が、大胆な断捨離を阻んでおります。

で、メルカリに4冊の本を出品することにしました。
「シュタイナー・コレクション」です。

え??シュタイナー絡みの本を手放すのかい?と思われるかもしれませんがこの本・・難解なのです。
書棚に収まる、まさしく”コレクション”に過ぎない数冊の本を思い切って手放すことにしました。
人智学はいまやネット情報からも学べますからね。

付箋が「ここ、ここ!」と呼びかけたのです。

 書棚から抜きだした中の一冊『内面への旅』に付箋が付いておりました。

そこを開き目を通してみました。
すると「おやおや」・・と思う文章に出くわしました。

とりあえす写真に収めましたが、ブログに残すという手もあるのです。
本日はこれを抜書きして我がストックとして残しましょう。

誰かが何かをいうとき、別の考えをもつ人は、「違う」と言います。私たちはどこかで相手と違った判断を下します。その場合、その誰かが間違っていたのかもしれませんし、私たちが間違っていたのかもしれません。ある点では、誰かが正しく、別の点では、私たちが正しいのです。ですから一方が他方と違う判断をするとき、自分の判断を基準にするわけにはいきません。そうしても意味がありません。
 
賢くなった人は、常に自分の判断を引っ込めます。自分の判断に執着しないために、自分が正しいと思ったときでも、意見を引っ込めます。

私はここを読み、自分が理屈でやりこめられたと感じた体験を思いだし、やや溜飲を下げる思いで読みましたが、シュタイナーが語ったのは、このような事例を越えたものであることは明白です。

文章を続けて読みますと、物事の判断には自分を無にすることが大事であると述べられております。

自分を無にして、二つの物言いをまず受け取れ、と。
自分自身が二つのものごとと対立する必要はないのだと。
すると、二つのものごとそれ自身が矛盾し合う。
このようにして物事の判断は、自分によってではなく、外から下される。

 そのようにして、賢者は判断するのです。

手元にしばらく

 私は「賢者」ではないので、このような文章に出会っても、自分の過去の感情につなげてしまったりする人間です。
この本を再び手に取っても、やはり内容は難解で理解は難しいでしょう。

それでもこの本だけはもうしばらく手元に置くことにしました。

他の3冊をメルカリに出品しました。
そのうち2冊は直後に購入されました。
メルカリもこのように出品したものがコンスタントに売れてゆけば、良いのですがなかなかそうはいかず・・・。
出品後売れずに残る在庫がたくさん。
こちらも、整理が必要ですね。

  *   *   *
 それにしても、びくともしない屋根の下で、乾いた床の上で、守られた家の中で片付けができることは大変幸せなことなのですね。
昨日の台風により、弟夫婦の家は床上浸水してしまいました。
多摩川沿いに建てられた家の一階部分が浸水で泥だらけ。

テレビでも、水浸しの家や、壊れてしまった家、流されてしまった家などが映し出されていて胸がいたみます。
もちろん命があっただけ良いと考えるべきでしょうが、このような困難に見舞われたあとの生活の再建は大変な苦労を伴うことでしょう。

最後になってしまいましたが、この度被災された方へお見舞いを申し上げます。