コルチャックとピウスツキ兄弟①

8月14日(金曜日)
 本州では体温を越えるような暑さが続き、熱中症への警戒を呼びかけるニュースが流れておりました。
しかし、こちらは北窓から寒いくらいの風が吹き込んできて「さむ!さむ!」と言って窓を閉めました。
夕方の気温は17度でした。
秋の虫が鳴き始めております。

さて、私の新たな課題。
何回かに区切りながらでも最後までたどりつきたいな。

3人の年譜を並べます

ヤヌシュ・コルチャック
ブロニスワフ・ピウスツキ
ユゼフ・ピウスツキ
3人の年譜を並べてみようと思います。

取り立てて理由はないの。
取り立てて目標もないの。
それに、並べるといっても表にして提示する技など持ち合わせておりません。


理由も目標もないものの、きっかけというのがありまして、それが前回の記事です。
kyokoippoppo.hatenablog.com

試作と称して書いたものが以下の通り。


1878もしくは1879年・・・「コルチャック先生」=ヘルウィク・ゴールドシュミットは、ロシア帝国支配下にあったポーランド王国の首都ワルシャワで、同化ユダヤ人の子どもとして生まれた。

※彼の兵役をいくらかでも遅らせようと、父親が出生届を後から出したと思われる。
※当時ユダヤ人は特に兵役が長く、年齢を偽ったりわざと身体を傷つけて身体的な障害を自ら負う者がいた。
※戯曲『どの道を』を書いた1899年に「ヤヌシュ・コルチャック」のペンネームを採用。
ポーランド人らしいネーミングだとのこと)
※同化ユダヤ人とは、現地に「同化」した状態のユダヤ人のこと。

ブロニスワフ・ピウスツキ1866年生まれ。
⚫弟であるユゼフ・ピウスツキ1867年生まれ。



3人の名前が何度も出てきます。
コルチャックブロニスワフユゼフで表していくことにしましょう。
また、参考にするものは図書館で借りた『コルチャック先生』やWikipediaなどのネット情報です。
誤りのないように気をつけますが、見落としや誤認の可能性もありますことを、予めお断りしておきましょう。
なお、コルチャック誕生は、1878年として記述を進めます。

流刑

1886年・・・ブロニスワフサンクトペテルブルク大学に、ユゼフは、ハリコフ大学に入学を果たす。

ピウスツキ兄弟の年齢は一つ違いです。
 兄の大学入学が遅れたためか、二人とも同年に大学入学を果たしております。

しかし、両者ともはかない大学生活となる。
翌87年・・・ブロニスワフは、ロシアのアレクサンドル3世の暗殺計画に関わったとして逮捕され、懲役15年の判決を受け、サハリンへの流刑が決まる。
ユゼフも兄の連座容疑で逮捕される。懲役5年の判決。囚人農場に送られた。

コルチャックはこの頃ユダヤ人の上級階級の子どもと同じように、私立のポーランド人の初等学校へ通っている。


※当時、義務教育は制度化されておりませんでした。
ロシア帝国支配下にあったポーランドでは、学校ではロシア語が使われ、ポーランドの歴史や文化を学ぶことはありませんでした。
学校はコルチャックにとってはよいところではなかったようです。

「私が子どもだったころの学校は、少しもよいところではなかった。あるのは鞭による規律と不安だけだった。それ以外の何があっただろう。」

(『コルチャック先生』より)

1891年コルチャック、ロシアの文科ギムナジウムに進学。(13歳)

※当時大学生はもちろん、ギムナジウムの生徒たちも社会主義教育思想に傾いていました。
 専制ロシアの歪みが見え始めていた頃で、コルチャックも、ロシアの支配に抵抗する思想に共鳴するようになりました。

1892年ユゼフ刑期満了で解放される。

ユゼフポーランド社会党を組織、地下新聞を発行するようになります。
青年時代のコルチャックにも影響を与えたのではないでしょうか?

コルチャック・・父の死

1896年・・・コルチャックの父親が、精神の病を発病、入退院を繰り替えした後に死去。
コルチャック18歳のとき。
同年、ギムナジウム最終学年の時に、短いエッセイを発表。

 ユダヤ人に生まれ、精神障害者の息子ー他人は私をどう見ているだろうか。誇り高く、夢見がちなコルチャックは将来の夢をつかめないでいました。ロシアに隷従しているポーランド自体がどうなるのか、政治的にポーランド人は存在するのか、同化ユダヤ人はその中でどういう立場を占めるのか、という問いを何度も自らに投げかけてみるのでした。

(『コルチャック先生』より)



同年ブロニワフ大赦による減刑となる。
翌1897年・・・・刑期満了。



ブロニスワフのサハリン(樺太)での流刑生活は、初めは大工としてスタートしたようです。
その後、現地に暮らす先住民との交流が生まれます。
子供たちの「識字学校」を作ってロシア語や算術・算盤教育を始めるなど、流されてきたこの土地で、新たな情熱を傾ける対象を得たのです。
「識字学校」の教師の中には、日本と樺太アイヌの間に生まれた千徳太郎治(せんとく たろうじ)もおりました。

  *  *  *

今日はここまで・・。