コルチャックとピウスツキ兄弟④

 今週はあっという間に過ぎてゆきました。

 金曜日の晩がやってきました。 
少しずつ歩みを進めている
『コルチャックとピウスツキ兄弟』
の続きを書くことにしましょう。
「ブロニスワフ・ピウスツキ」
「ユゼフ・ピウスツキ」
「ヤヌシュ・コルチャック」
の年譜を並べてみるという試みです。
自分の興味のままに始めたもの。
スルーして下さってかまいませんよ。


主にコルチャックの人生を、柱にして書き進めるつもりです。
参考にするものは図書館で借りた『コルチャック先生』やWikipediaなどのネット情報です。
誤りのないように気をつけますが、見落としや誤認の可能性もありますことを、予めお断りしておきましょう。

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))


前回は、
1904年~1905年日露戦争のあたりのことを書きました。
軍医として出征するも、戦地の子どもたちの被る被害について胸を痛めるコルチャック。
日本に来日、ポーランドへの支援を要求するも失敗に終わったユゼフ。
結婚した、チョフサンマを連れ祖国ポーランドへ帰ろうとするも、叔父のアイヌ首長の反対に合い、やむなく妻子を残し樺太を去ったブロニスワフ。

1906年・・・樺太を去ったブロニスワフはヨーロッパに戻る途上で来日。7ヶ月滞在。
その間アイヌ研究に関する作品『樺太アイヌの状態』を公刊。
秋には太平洋を渡り、さらに大西洋を経てポーランドへ至る。

同じ頃・・・戦地から戻ったコルチャックは、慈善協会のボランティアとして、恵まれない子どもたちと過ごす「夏期休暇村」に参加。
このような体験記を経て、子どもの世界を探求したいと望むようになる。
1906年・・・ベルリン大学に留学。社会教育家として活躍する小児科教授フィンケルシュタインに学ぶ。


同年ポーランド社会党は親ロシア的になってゆき、あくまで反ロシアを掲げ独立を目指そうとするユゼフは孤立してゆく。


1908年・・・ユゼフ私設軍隊を創設。これが後のポーランド軍となる。


簡単に私設軍隊など作れるものか?と感じまして、ちょいとネットを散策。
なんと、ロシアの輸送列車から盗んだ金で軍隊を創設したという情報を見つけました。
クラクフ公認ガイドがお届けするポーランド情報ブログ・ポーランドなびにて。)
1900年には、発狂したとみせかけ投獄先から逃げ出すなどの脱走劇を果たしているユゼフ。
なかなか派手はことをやってのける人物ですね。

1909年・・・・コルチャックは孤児援助協会が設立する新しい孤児院の計画に関わるようになる。
病院を退職し、子どもたちの父として理想とする孤児院(ホーム)を作ることを決意。


1911年~12年・・・ワルシャワのクロフマルナ通りに「孤児たちの家」ドム・シェロットが完成。

ドム・シェロットのために、進歩的な思想を持つユダヤ人、裕福な商人、知識人たちが協力してくれました。孤児院(ホーム)はすべて義援金と寄付によって賄われました。ワルシャワ社交界は、コルチャックを医師、作家として賛美していましたから、孤児院の院長になった彼に驚きました。しかも彼は、いままでは皮肉っぽい態度で批判的の接していた上流階級や金持ちに頭を下げ、援助を乞うことになったのです。コルチャックのホームのための柔軟な現実主義は以後三十年間、最期の日まで続きました。彼にとってクロフマルナは「観察、計画、仮定の宝庫、誰も足を踏み入れたことのない黄金の地」(『いかに子どもを愛するか』)でした。
 しかし、当時の自分の気持ちを、後年こう振り返ってもいます。

   
病院を辞めてからこのかた、脱走でもしたかのようないやな気持ちをぬぐいさることができない。私は病院の子どもを、医学を、病院を、裏切った。医者であり、子どもの魂の形成者になるというあやまった功名心が、私を唆した。
   (ゲットー日記)


(『コルチャック先生』より)



 今日はここまでにしましょう。
あちらこちらと調べながら書き進めるので、ちっとも進みません。

  *  *  *

 猛烈な台風が近づいています。
自然との調和をないがしろにしている人類に対し、地球が怒っているのでしょうか?
コロナ発生させ、猛暑を産み、猛烈な台風が人々の営みを根こそぎにしてゆく・・。

どう暮らすべきか?
何が大切なのか?

私たちはもちろん、政治家もそこに目を向け、軌道修正していかなければならないように思います。