コルチャックとピウスツキ兄弟 ⑨

同じ時代に違う理想を追って生きた3人
ヤヌシュ・コルチャック
ブロニスワフ・ピウスツキ
ユゼフ・ピウスツキ
彼らの年譜を並べてみましょう・・と始めたこの企画です。
ブロニスワフは1918年セーヌ川に身を投げて亡くなり、
弟ユゼフは17年後の1935年に病死しましたので、その後の記述はコルチャックの晩年のこととなりました。
そして今回は、死へのカウントダウンが始まった最晩年の数ヶ月を綴ります。

ユダヤ人の根絶

1942年1月・・・ヴァンゼー会議。
ベルリン郊外のヴァンゼーで会議が行われ、「ユダヤ人問題の最終解決」が決定された。

 ヨーロッパのユダヤ人1100万人を根絶することが決められました。
恐ろしい噂がもれ聞こえてくる間に、コルチャックの救出作戦が計画されるのですが、コルチャックはこれを拒み続けます。
子どもたちを置いてゆくことなど彼には到底考えられないのでした。

 下記は、5月15日付で綴られたコルチャックの日記、「思い出」です。

私はヴィスワ川を愛する
私がワルシャワから引きさかれても
私の心の奥深く、ワルシャワに憧れる
ワルシャワは、私のもの
私は、ワルシャワのもの
もう一度、言いたい、
私はワルシャワなのだ
ワルシャワと共に幸せであり、不幸せであった
ワルシャワの天気は、私の天気だ
ワルシャワの雨も、土も、私のもの
私はワルシャワと共に大きくなった

コルチャックがこんなにも別ちがたく愛するワルシャワなのに・・・ここは、もうコルチャックを受け入れる余地を持たない土地となっていました。

最後の贈り物

 コルチャックは子どもたちに最後の贈り物をしようと考えました。
タゴールの戯曲『郵便局』を、子どもたちによって演じさせてやろうという試みです。
タゴールの作品はナチスの検閲で禁じられていたのですが、コルチャックは敢えてこの作品を選びました。

同年7月18日・・・『郵便局』の上演

  コルチャックは劇の上映中、ホールの片隅で腰を曲げて立っていました。そのひとみは、観客たちに「さようなら」を告げているようでした。
これがホームでの文化活動の終わりでした。

(『コルチャック先生』より)


『郵便局』の内容は「死」を暗示させるものです。
病気で外へ出ることができない主人公「オモル」は、ゲットーの中に閉じ込められたユダヤ人と重なります。
オモルは、”希望”の手紙を運んでくれる郵便配達人をまどろみながら待ちます。
そして手紙を運んできた使者に看取られながら永遠の眠りにつくのです。
子どもたちや観客であるユダヤ人たちが、これから迎えるであろう「死」・・・その「死」を、このような形で伝えようとしたのではないか?
『コルチャック先生』の著者である近藤康子氏は、この上演をそのようにとらえております。
最後の文化活動は、”死が恐怖の対象ではなく、命あるものが必ず向き合わねばならない現実である”というメッセージを残して閉じられました。

この4日後・・・

7月22日・・コルチャック64歳の誕生日
     朝7時半、ゲットーが武装した警察官に包囲される。
     東部へ再移住をすることが告げられた。

断たれた最後の望み

再移住とは、すなわち「抹殺へ向かう移住」を意味します。

 ユダヤ人評議会議長チェルニアクフは、この日までドイツ側にできるだけの譲歩を求めるように働きかけてきました。
特に孤児院などに入っている子どもたちは除外してくれるよう懇願してきました。
しかし、この願いは聞き入れられませんでした。
自分の無力に力を落とし希望を失ったチェルニアクフは、青酸カリによる服毒自殺でこの世を去ります。
夫人も後を追いました。

「彼らは、私の手でわが民族の子どもたちを殺せという。私に残された道は死しかない」
遺書の言葉です。
チェルニアクフの死はコルチャックたちにとって最後の望みが消えたことを意味しました。


 ゲットーへの食料を断ち、飢えきった人々にパンとマーマレードの供与を提示することによって自発的な移送を促すナチス
地域ごと建物ごとに住民は連れ去られてゆきました。
人々が向かう先はワルシャワ・ダンツイヒ駅の積換場です。

トレブリンカへ

8月5日もしくは6日・・・約30の福祉施設から総計4千名余の子どもたちがトレブレンカへ旅立った。

 コルチャックのホームの子どもたちは整然と四列に並んで歩いて行ったと言われています。警官も鞭を使わなかったとも・・・・。
子どもたちはステファ夫人の用意したいちばんよい服を晴れ着のように着て、水筒をかけ、小さなリュックサックを背負っていました。大切な宝物おもちゃをしっかり持つ者もいました。幼い子どもをのぞけば、夏期休暇村は行くのではないことを悟っていたはずです。しかし、それ以上は子どもたちの想像力もおよびませんでした。大人たちも経験したことのない、狂気の世界への出発でした。

暑い日ざしの中を行進はつづきました。周囲をユダヤ人警官が固め、S・Sが威嚇します。途中落伍する者はその場で射殺されます。
のどがヒリヒリ渇く、トイレにも行きたい。しかし、すべてが拒絶され、否定された行進でした。

(『コルチャック先生』より)


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(画像は travel ・ jpよりお借りしました)

 混乱する積換場でいよいよ積み込みが始まろうとする寸前、ひとりの男が走ってきました。

「ドクタードクター!コルチャック!あなたは残っていいのです。貨車に乗らなくてよいのです。」
コルチャックは移送の対象から外れることができたのです。
コルチャックは答えます。
「私は子どもたちの父親です。私だけがどうして・・・」



コルチャックの最後の救出の場面はいくつかの証言があるようです。
しかし、変わらないのはコルチャックは子どもたちとともに、貨車に乗り込みトレブレンカへ向かったということです。

その後の足取りはわかりませんが、彼らが非人間的な最期を迎えたという憶測しかできないことは、何とも胸の痛むことです。
eritokyo.jp

第二次世界大戦のその後はウェブページからの抜粋で済ませます。

 1944年6月に連合国軍がノルマンディー上陸作戦を敢行、ドイツ軍は次第に追いつめられる。太平洋戦争では同年7月、サイパンが陥落。アメリカ軍による日本本土爆撃が本格化した。連合軍は44年8月にパリを解放。1945年2月、連合国軍首脳はヤルタ会談で戦後処理で合意した。西から迫ったアメリカ・イギリス軍と東から迫ったソ連軍が4月25日にはエルベ川で邂逅し、米兵とソ連兵が握手し「エルベの誓い」と言われる不戦の誓いをした。
 
  ベルリンはソ連軍が先着して包囲し、首相官邸地下壕にこもって抵抗を続けたが、4月30日にヒトラーが自殺し、ベルリンは陥落して5月8日に正式にドイツが無条件降伏してヨーロッパの戦争は終わった。
 
  アジアでは日本軍の抵抗が続いたが、4~6月は沖縄戦、5月の東京大空襲焦土化が進み、7月、連合国はポツダム会談で日本に無条件降伏を勧告。8月に広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦が続き、ついに8月14日に日本は昭和天皇との御前会議で日本の無条件降伏(国民への発表は8月15日)して大戦は終結した。正式には9月2日に、東京湾の戦艦ミズーリの艦上で、日本政府が連合国代表に対する降伏文書に署名したので、国際的にはその日が戦争の終結日とされている。

『世界史の窓』のウェブページより。


やっとここまで綴ることができました。
ここで終了????
いや・・・実は私、なごり惜しいのですよ!!
次回は資料編をこしらえてホントのホントの最終記事にいたします。