美味しい秋

 昨夕、久々に娘が孫を連れてやってきました。
こちらは、ようやく大きくなった畑の西瓜に、夫が期待満々で包丁を入れたとき。
「あらあ!!すごいタイミングで来たねえ!西瓜切るところだよ。」
と私。
内閣総理大臣賞もらったという高級牛肉でビーフシチュー作ったから持ってきたよ。」
と娘。
更には、
「鶏モツ手に入ったから持ってきた。モツ煮作って!!」
と・・。

f:id:kyokoippoppo:20200929185221j:plain:w250:leftさっそくお湯を沸かして、モツを入れひと煮立ち。
大根と人参も入れましょう。




大根はお向かいさんからのいただきもの。
人参は勤務する小学校で獲れたもの。
畑の収穫物のおすそ分けです。
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ミスマッチですが、秋味(鮭)も焼きました。
数日前、やはり娘が切り身になったものを持ってきて我が家で塩したものです。
シチューになった高級牛肉も、秋味も、娘が賄い仕事に通っているお宅からいただいたもの。
大規模な牛舎を持つ同級生のM宅には、たくさんの贈答品が集まるのです。
父ちゃんは忙しい仕事の合間をぬって釣りに行くのです。
そしてそのおこぼれが、我が家にまで届くのです。
ありがたや~~!!!


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シチュー!!ジャジャーン!!
カレーにしろ、シチューにしろ、具材が大きいのが娘の料理の特徴です。
ひとつひとつの味が、くっきり区別できるのが好きなのですって。
おイモは皮も剥かずドドーンと入っております。
このイモはレッドムーン
我が家の畑の収穫物です。
ただし労働は100パーセント夫による・・・。

とっても美味しかった!!









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  秋味は写真を撮る前にはしをつけてしまい、慌てて撮影。
大きな切り身です。
さぞかし大きな魚だったことでしょう。
これも、身がふんわりしていて程よい塩味で美味でした。


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西瓜は・・・・
ほら・・種がまだ白いでしょ。
熟し足りないようでした。
みずみずしかったのですが、甘味が少なく残念!!










 さてさて・・・モツ煮はどうなった??
晩にいくらか煮ておいて、翌朝野菜を一旦抜いてモツだけを更に煮詰めました。
モツは濃い目の味付けでないと食べにくいので・・。
出来上がり!!


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出勤前に娘のところに届けてやりました。

頂き物やら、畑の収穫物で
「美味しいもの」をいただきました。

kyokoの偶偶石 22 ・・・・焼けたかな?

 はなぱんださんのお誘いに乗った形で始めた『kyokoの偶偶石(たまたま石)』です。

滋味日日・・いいこと ”お福わけ”

 オホーツクの浜で目に留まった石たちを、拾っては持ち帰ってしまう私。
それをどうするか?って・・瓶に入れたり、かごに入れたり、灰皿に並べてあったり・・。
乱れた部屋の中で、乱れ気味に置いてあります。

それらに光を当てようと始めたわけです。


すっかり「kyoko流」のやり方ですが・・・。

大抵何かに見立てて、◯◯みたい!!◯◯に見える??
という形式で紹介しております。
・・となると当然見立てづらいものが残ってきますでしょう。
うーん!!????

今回はギブアップ!!

・・・で
先日、夫が拾ってきた石を拝借して凌ぐことにいたしました。


・・・・夫もね・・・拾ってくるのですよ。
浜に行くと掘り出し物が目に入るのでしょうね!!
夫が拾ってきた石。
アンド「薄くて丸いもの」で使った石も賛助出演!!

kyokoの偶偶石22・・・焼けたかな


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白いはおもち

おもちは丸い

丸いは石(いーし)


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     石(いーし)は堅い

    堅っいから焼いて


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 焼いたら美味しそう!

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      美味しそうはおもち!!







 一気に秋が深まりましたね。
26日の土曜日からストーブ点火。
冷たい雨とざわざわと吹きつける風を聞いて過ごした休日でした。
 みなさん、風邪などひきませんように・・・。

コルチャックとピウスツキ兄弟 ⑥

同じ時代に違う理想を追って生きた3人
ヤヌシュ・コルチャック
ブロニスワフ・ピウスツキ
ユゼフ・ピウスツキ
彼らの年譜を並べてみるという試みです。

第一次世界大戦前の1912年に誕生したユダヤ人のための孤児院が「ドム・シェロット」でした。
コルチャックの教育にかける理念をしっかり理解して、実質的にここを支えたのがステファニア・ヴィルチンスカという女性です。彼女はコルチャックが軍医として出征中も、この施設をしっかり守ってくれました。前回は、
1918年に戦争が終わり、ポーランドは念願の独立を果たし、ユゼフ・ピウスツキが初の国家元首となったところまでを記述しました。
終戦の数ヶ月前に、ユゼフの兄ブロニスワフ自死によりその生涯を終えております。

先に進みましょうね。

1919年・・・ポーランド孤児のための施設「ナッシュ・ドム」ができる。
「ナッシュ・ドム」の施設は1919年に、古い家屋から始まったそうです。
大戦後のポーランドは経済的に苦しく、寄付金も集まりにくい状況だったのです。
それでも屋根があるということを安心の糧として、食べ物を調達することを最優先にしての経営が始まりました。
コルチャックは「ドム・シェロット」と「ナッシュ・ドム」のあいだを行ったりたり来たりする生活となりました。
両施設とも経済的に窮乏しており、食べさせるのもやっとの現実でしたが、コルチャックは、高い理想を掲げていました。
二つの孤児院の子どもたちの交流からユダヤ人とポーランド人が互いに理解し合うことを願っていたのでした。

未来の社会に希望が持てるとしたら、それは政治がよくなるということなどてはなく、人間がよくなること

コルチャックはこのように語り、次のような教育に対する考え方を貫きました。

世界を改革するのは教育を改革することなのです。子どもたちに無理に教えるのではなく、一人ひとりの個性を壊さないように、その子どもが向上していくことだと思います。教育学者が理論を上から押しつけるのがいちばんよくないのです。

そしてまた・・・戦争が始まります。

1920年・・・ポーランドソビエト戦争
かつてポーランド領であった地域を取り戻そうと独立間もないポーランドソ連邦にしかけた戦争です。短期間で終結ポーランドは勝利します。

(ところで、この戦争が起きた当時、ソビエト連邦はまだ創設されていません。ソビエト連邦の創設は1922年できごと。
前回の記事では、このことで書き間違えがあり、手直ししました。ソビエト連邦ソビエト政権に直しました。
ソビエト連邦樹立の起源は第一次世界大戦終戦直前の革命時で間違いはなのですが、このときはまだソビエト連邦は確立していなかったのです。
・・・と書きつつもほとんど理解できていないワタクシ・・。)

さて、苦しい言い訳を終えましたので、さらに記述を進めましょう。

ポーランドソビエト戦争はナッシュ・ドム設立のわずか一年後に始まっています。コルチャックは今度はポーランド軍の軍医として軍の病院に勤務することとなりました。
この戦争中にコルチャックは発疹チフスに感染、ホームに帰れば子どもたちに感染させてしまいます。
彼は一時母親の元で看病を受けました。しかし、母親が同じ病に感染し命を落としてしまうのです。
コルチャックのショックは大きく自殺を考えたほどだったそうです。



1920年・・・戦争終結ポーランドは勝利を勝ち取る。
    新国境が決まりポーランドは東ヨーロッパの大国となった

1922年・・・ロシアの共産主義者たちは国内の混乱を鎮圧して「ソビエト連邦」を創設。
同年・・・・ポーランド国会は新憲法を制定。
1923年・・・・ユゼフ国家主席の地位を辞任。
憲法では議会の力を強め、大統領の権限を抑えたため、ユゼフは大統領に立候補せず、国家主席の地位からも退きました。


1924年・・・世界で初めての子どもの権利宣言「ジュネーブ宣言」が国際連盟で採択。

度重なる戦争により生じた戦災孤児たちを救うべく採択された宣言でしたが、
この内容、姿勢に対してコルチャック次のような批判を寄せました。

ジュネーブの立法者たちは義務と権利を混同してしまった。宣言の論調は主張ではなく説得であり、善意への訴え、優しさへのお願いにすぎない。

(『子どもの権利の尊重』1929年)より


ポーランドの指導者たちはポーランドの再建につとめたものの、政党間の争いが政府を弱体化させ、物価は高騰し、失業が広がりました。
政治的な危機が深刻化し、政治の機能は麻痺状態に陥ってしまいます。

1926年・・・ユゼフはクーデターを起こし政権に復帰。    
    自分の親友を総理大臣に据えた。

1926年5月12日、ピウスツキはクーデター「五月革命」を起こす。絶大な人気により、政府内にもクーデターの協力者が出る状態であったが、政府側もよく抵抗した。結局、鉄道労働者の協力があったため、クーデター軍が数日で勝利した。犠牲者は500人程度だといわれている。ピウスツキは大統領にはならず、国防相と首相の立場から実権を握った。
この独裁期間は反対者を収監するなど、ファシスト的な独裁ではあったが、政治腐敗の一掃を行ったため、サナツィア(清浄化)体制と呼ばれている。ピウスツキは反ユダヤ主義に否定的で、かつてのポーランド・リトアニア共和国(ヨーロッパ初の成文憲法5月3日憲法」でその民主主義の理念が頂点に達した)のようにポーランドを諸民族が融和するコスモポリタン多民族国家として育てようと考えており、この点でサナツィア体制はファシズムとは異なる。そのためピウスツキは国内のユダヤ人からも支持を獲得した。

Wikipediaより)

ユゼフは独裁的ではありましたが、反ユダヤ主義に否定的であり、他民族国家を理想としていたのですね。
ユゼフ政権復帰の年、ユゼフの妻アレクサンド・ピウスツキがナッシュ・ドム協会のメンバーとなり、多大な資金援助をしております。

資金援助については、下記の資料で見つけました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/taikaip/75/0/75_120/_pdf


1933年・・・ドイツでナチス政権が樹立アドルフ・ヒットラーが首相となる。

1935年・・・・ユゼフ・ピウスツキ死亡
同年・・・・ナチスユダヤ人のドイツ市民権を奪う「ニュルンベルク法」を公布。

1935年、コルチャックの尊敬していた偉大な愛国主義者ピウスツキが死去、彼の心は大きな支えを失いました。ピウスツキは他民族国家を認め、ユダヤ人たちからも尊敬されていた人物でした。

『コルチャック先生』より

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

 私の興味のままに書いた記事でした。
『熱源』を読んだことから発した興味が続いているのです。
『興味の流れのままに』のカテゴリでこんなに書くことになろうとは、自分でも驚いておりますよ!!

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空を見上げた

 隣の地区に行きますと、カラスの大群が・・・?
昨年も、ある特定の時期に見られました。
ワタリガラス??
いや?
ワタリガラスはもっと大型らしいよ!!
この日も、

この日も・・
私は、空を見上げて見飽きない。

電線に
・・・・
並ぶ
・・・・
並ぶ
・・・・・
並ぶ


私は運転手だったから、娘に
「写真撮って!!」
・・・
西のそらが明るんで、オレンジ色の光線が!!
私はハンドルを握りながらも振り返って、それを見る。
「写真撮って!!」


ああ!!もっと綺麗だったのよ。

・・・そして夜。
またまた空を見上げます。

きれいな半月と
木星
土星が並んで見えました。

この週末は『コルチャック先生とピウスツキ兄弟』を書き進めたいな。
その前に、写真だけのこの記事をそっと忍び込ませました。

kyokoの偶偶石 21 ・・・・小さきものの巣穴

 はなぱんださんのお誘いに乗った形で始めた『kyokoの偶偶石(たまたま石)』です。

滋味日日・・いいこと ”お福わけ”

 オホーツクの浜で目に留まった石たちを、拾っては持ち帰ってしまう私。
それをどうするか?って・・瓶に入れたり、かごに入れたり、灰皿に並べてあったり・・。
乱れた部屋の中で、乱れ気味に置いてあります。

それらに光を当てようと始めたわけです。


すっかり「kyoko流」のやり方ですが・・・。

大抵何かに見立てて、◯◯みたい!!◯◯に見える??
という形式で紹介しております。
・・となると当然見立てづらいものが残ってきますでしょう。
そんな石たちの中から、今回はこちらをチョイス!!
今回の見立てはいかがでしょうかね??


kyokoの偶偶石21・・・小さきものの巣穴

横3cmの小さい石です。
穴もゴマ粒ほどの大きさ。
それがお行儀よく並んでいます。

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穴のおうちだよ

茶色いお山の下にならんだ

みんなのアパート

オカリナみたいに並んだ穴の

おうちの玄関


下の写真は、崖に巣穴を作る「小洞燕」のおうちです。
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(画像はWikipediaからお借りしました。)



追記!
 二匹のワンコを見つけて下さった方がいらっしゃいますよ!コメントご覧くださいな!
ほら!左のワンちゃん!
目も鼻もありますよ!
右は横向き。
二匹とも可愛らしい!

コルチャックとピウスツキ兄弟⑤

同じ時代に違う理想を追って生きた3人
ヤヌシュ・コルチャック
ブロニスワフ・ピウスツキ
ユゼフ・ピウスツキ
彼らの年譜を並べてみるという試みです。

ワタクシ・・歴史には興味が向いたこともなく、時代物の本は読みませんし、歴史ドラマもほとんど見ません。

なのに、こんなことをしたがるのは何故?
まずは「人」に興味が湧いたのです。
で、その人の生きた背景として歴史を辿っているわけなのです。
今回は
第一次世界大戦のあたりを綴るわけですがね。
ざっくり記せば、
この大戦中にロシア帝国は革命によって滅び、ソビエト共和国が生まれ、大戦後ポーランドは独立を果たす。
ということになるのですが、私の頭の中は簡単に「ほうほう、なるほどね。」とはなりません。

そうなるほどの知識がありません。


はてさて、革命って?一体具体的にはどんなことだったのか?
どういういきさつで、ポーランドは独立できたのか?

そんな疑問を携えて調べていきます、検索につぐ検索!!
ポーランド第一次世界大戦
ロシア革命
ポーランド独立・・・などを打ち込んで読んでみます。

複雑な史実が現れます。

そんなこんなを、調べながら記事を書き進めました。
私の自由研究ですから、読むのが苦痛だなと思ったかたは、遠慮なくスルーして下さいね。

911~12年・・・『ドム・シェロット』・・・ユダヤ人のための孤児院が完成。

前回はここまで書きました。
コルチャックは医師としての有望な将来を捨て、孤児院の運営に全力を注いでいくことにしたのです。
しかしほどなく・・・

1914年・・・第一次世界大戦始まる。

この時代は落ち着く間もなく戦争がやって来るのだなあ。

みんなの大好きなコルチャック先生は、ロシア軍の軍医として戦地に赴かなくてはなりませんでした。
コルチャック留守中の孤児院管理は、有能な同志である女性、ステファニア・ヴィルチンスカによって支えられました。
一方戦地に赴いたコルチャック。
彼の眼差し、追求する使命は変わりません。
常に子どもたちの健康を幸せを願うコルチャックは、キエフでマリナ・ロゴフスカ・ファルスカという女性と出会います。
彼女は、ポーランド人の戦争孤児のために寄宿学校施設を運営していた人でした。
この人との出会いが、後の『ナッシュ・ドム』・・ポーランド人のための孤児院設立へとつながってゆきます。

同じ頃・・ブロニスワフはヨーロッパを渡り歩いています。


1914年・・・ロシアの侵攻を怖れ、ウイーンへ脱出。
1915年4月~1917年11月・・・スイスに滞在。
         1917年11月・・・パリに到着。

時同じ1917年11月・・・レーニンが史上初の社会主義国家であるロシア・ソビエト共和国を樹立。



1917年11月にブロニスワフはパリに到着し、ロシアでは革命後の暫定政権を倒したレーニンが、ソビエト政権を樹立しています。
文献は探せませんでしたが、連動した出来事だと思うのです。
さらにブロニスワフは何を思ったか、ユゼフの政敵であるロマン・ドモフスキが組織した「ポーランド国民委員会」のパリ事務所に勤務し始めます。
ロマン・ドモフスキとユゼフは、過去の日露戦争時に、日本の支援要請についての意見が違い、激しく対立しています。(同タイトル③に記述有り)

ユゼフは「ポーランド国民委員会」が組織された際も、この動きには賛同せず、反ドイツの意志を表明したためドイツで投獄されてしまうのです。(後述)
それ程に独立への方策方針が違う、ロマン・ドモフスキとユゼフなわけですが、兄のブロニスワフは「ポーランド国民委員会」に勤務したということ。

ユゼフに連動してゆかなかった理由はよく解らず、興味の向かうところですが、
今の私はこれ以上のことは調べられませんでした。

そして、ポーランドの独立に向け、一直線の勢いで突き進むユゼフは同じ時をどのように動いていたのでしょうか?


ユゼフがロシアの輸送列車を襲うという派手な手段で金を得て、私設軍隊を作ったことは同タイトル④で書きました。


1914年・・・第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ・オーストリアに協力して私設軍を派遣。ロシアと戦った。
私設軍隊はあくまで「ポーランド軍」であって、ドイツ軍に組み込まれないことを主張したユゼフ。
さらには、ドイツがロシアに勝ってもポーランドの独立を意図していないことが判るや反ドイツに転じたユゼフ。
その結果ドイツのマルデブルグ監獄に投獄される。

1918年 11月3日・・・ドイツ革命
      11月11日・・・・第一次世界大戦終結

前日10日にユゼフはドイツの敗戦により、出獄。ワルシャワ入りを果たす。
ポーランドは123年間に及ぶ隣国の支配から解かれ、念願の独立を果たす。
ユゼフは、国家主席兼総司令官に就任。

ロシア・ドイツの双方と戦う姿勢をみせたユゼフ・ピウスツキこそが救国の英雄と目されたのです。
 
時を少し戻し、ブロニスワフの話題に戻ります。
終戦を半年後に控えた

1918年5月・・・ブロニスワフセーヌ川に身を投げ自殺。
遺書などは残っておらず、動機は不明とのこと。
祖国ポーランドの独立を見ずして亡くなったわけですが、彼にとっての心の祖国は妻や子を残した「サハリン」であったようにも感じられます。

次回からは、ブロニスワフの記述がなくなります。
ユゼフの記述も減ってゆきそうです。


  *  *  *  *
 余談ですが、2020年のコロナウイルスに関連して話題にのぼることの多かったスペイン風邪ですが、このインフルエンザの流行は、
1918年の春から始まっています。
多くの死者を出し、第一次世界大戦の状況にも少なからず影響を及ぼしたといわれています。

kyokoの偶偶石 21 ・・・・ドライブ

 はなぱんださんのお誘いに乗った形で始めた『kyokoの偶偶石(たまたま石)』です。
はなぱんださん最近更新がないの!!
過去記事より、変わった模様の石を見つけて貼りました。
 www.hanapanda.com



 オホーツクの浜で目に留まった石たちを、拾っては持ち帰ってしまう私。
それをどうするか?って・・瓶に入れたり、かごに入れたり、灰皿に並べてあったり・・。
乱れた部屋の中で、乱れ気味に置いてあります。

それらに光を当てようと始めたわけです。


すっかり「kyoko流」のやり方ですが・・・。

大抵何かに見立てて、◯◯みたい!!◯◯に見える??
という形式で紹介しております。
・・となると当然見立てづらいものが残ってきますでしょう。

俗にいうネタ切れですね。
・・遊びに来た娘に
「ねえ!!これ何に見える??」
とたずねたりして・・。
苦戦!!
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ほら!!この石です。
横幅10センチはある大きな石。
『巨匠の描いた線画??』
平凡だわ!!

孫がその石をつかんで、次にテーブルにやってきたときは他の石とともに赤い車に積んでいました。
娘がすかさず
「Kちゃん!!ばあばの大事な石だから丁寧にさわるんだよ。」
などと注意をします。
孫は聞いているやらいないやら、無心に車を走らせます。
「何だかこの石バーバーパパみたいだね。」
娘はKの姿をみてクスリと笑いました。

その日
いいアイデアは生まれませんでした。

孫が帰ったあと、石の積まれたおもちゃの車は出窓におかれたまま・・・・



それをみていたら、

「なあんだ!!」
「Kちゃんが答えを出していた。」
私はにっこり微笑みました。


kyoko の偶偶石21・・・・ドライブ

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バーバーパパ

どこかに連れてって!!

よおし!!いいぞお!!

おでかけしよう!!

出~発~!!!!

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今回は孫に救ってもらいました。
みなさんなら、この黒い石からどんなイメージがうかびますかしら??