北方の島々

日本に一番近い外国

 「サハリン」は、日本に一番近い外国といわれております。
宗谷岬の先端から北に43キロ先はもう、サハリン島なのです。
そのサハリン島・・・日本地図では、南半分が真っ白になっていると思います。
plaza.rakuten.co.jp
下記は、こちらの記事よりコピーいたしました。↑

1952年の「サンフランシスコ講和条約」で、日本は「サハリン南部の領有権」を放棄しました。 
これで、サハリンはみんなソ連領になるはずでした。
ところが、当のソ連は「中国が参加していない」という理由で、サンフランシスコ講和会議(1951年)の議決を「無効」としたのです。
その結果、サハリンの南半分は「どこの国のものなのか未定の土地」となりました。

・・ということで、今回の記事のタイトルは「北方の島々」
固い内容になりそうです。
勤務する小学校のお片づけをしていて見つけた子ども向けの副読本『ほっぽうりょうど』(社団法人 北方領土復帰期成同盟  H17年改訂22版)などを参考に、なるべく簡潔に記述するよう心がけますので、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

北方の島々の領有をめぐる歴史をざっくりと・・

f:id:kyokoippoppo:20200717195729j:plain:w350:left1855年・・・日露通好条約
日本とロシアの国境は、択捉島とウルップ島の間。
それより南は日本のもの、それより北はロシアのもの。
樺太(サハリン)は国境を定めず両国民が住んでも良いこととする。
しかし次第に、樺太でロシア人と日本人の争いが起きるようになってくる。
(挿絵は『ほっぽうりょうど』より)




f:id:kyokoippoppo:20200717195148j:plain:w330:right1875年・・・樺太千島交換条約
そこで結ばれたのが、樺太千島交換条約。
千島列島(ウルップ以北の列島)を日本領にする。
そのかわり樺太は丸ごとロシア領とする。


1905年・・・ポーツマス条約
その後の日露戦争で日本が勝利。
丸々ロシアのものだった樺太の南半分を、日本の領土にした。


この時代日本の北の国境は、樺太の北緯50度だったのです。
国内で唯一陸地に引かれた国境線となり、そこは観光の名所ともなりました。
鉄道が敷かれ、製紙工場が作られ、発展を遂げました。
林芙美子が、宮沢賢二が・・・そして昭和天皇も、皇太子時代にこの地を訪れています。

f:id:kyokoippoppo:20200716063507j:plain:w340:leftしかし、第二次世界対戦で国境はまたまた大きく塗り変えられる。
ソ連は、敗戦が決定的な日本に対し、『日ソ中立条約』を一方的に破って戦争を仕掛けてきた。
終戦後にも侵攻を続け、9月5日までに、北方領土全ての占領を完了させた。

その後も、ソ連と、・・・続くロシアとも会談を重ね、それに伴う宣言もなされ、合意による歩みよりもみられたものの、我が国固有の領土とされる4島は、返還されておりません。
ロシアの人たちが住み、彼らの街を作り暮らしているのです。



これが、北方の島々の領有をめぐる歴史です。
子どもたちが学ぶ時もこのように教えられることでしょう。

 しかし、宇梶静江氏によって書かれた『大地よ!』の113ページを読むと、「歴史」というものは、”主観的な産物”になる危険を孕むと思わざるを得ません。
もちろん、客観的な事実が無いなどとは言いませんよ!!!
事実は事実としてそこにあるのですが・・・。
二国がこれまでに交わし合った「領有」とか、「条約」と言うものも、その狭間で生きてきた民族にとっては全く違う意味を持つということを突きつけられるのです。

大地よ!  〔アイヌの母神、宇梶静江自伝〕

大地よ! 〔アイヌの母神、宇梶静江自伝〕

宇梶氏は日本とロシアで交された北方史を簡略に記したあと、このように続けています。

これが日本側からみた北方史の概略です。
 この間、アイヌ民族やギリヤーク民族といった、これらの土地の先住民が歴史的な主体として、立ち現れたことはありません。先に立てた設問、「アイヌモシリが、いつ『日本領』になり、アイヌ民族が、いつ『日本人』になったのか」それに答えられる人はいったいどこにいるのでしょう。ここに示した歴史過程は、いったいいかなる正当性に基づいているのでしょう。
 アイヌが「アイヌモシリ」と呼ぶ大地(北海道、樺太、千島)に居住してきたアイヌやギリヤークの歴史を無視して、日本とロシアが糾ってきた歴史に、それらの先住民の居場所はありません。彼らはともに侵略者であり、「アイヌモシリ」は勝手に「北海道」と命名され、アイヌ民族は、勝手に日本人とされたのです。


私の心は、宇梶氏のこの言葉に強く共振するのです。

アイヌの人々も好んで日本人化したのではないか?
今更これを訴えて何をどうしたいのか?
アイヌの暮らしは日本の文化に触れて、より豊かになったはずだ!
そもそもアイヌの血は薄くなっており、とっくに日本人だろう!!
そんな反論も想定できます。
できますが・・私の気持ちは宇梶氏のこの訴えを、丸ごと受け入れることができるのです。

境界の島サハリン

 樺太に関しては上記に記した通り、日本は領有権を放棄しております。
ですから樺太は返還要求の対象とはなっておりません。
返還要求の対象となっているのは、1855年当時、明らかに日本の領土であった4島です。

しかし、「樺太」(サハリン)は、日本に一番近いというばかりではなく、日本人と縁の深い島といえます。


『サガレン』の著者である梯久美子氏は、サハリンを次のように記述しています。

何度も国境線が引き直された境界の島であるサハリンには、複雑な歴史が地層のように積み重なっている。樺太時代に日本が整備したインフラ(鉄道もその一つだ)がさまざまな形で残っているし、ロシアがこの地を流刑地にしていた時代の面影も見ることができる。戦跡についても、日露戦争第二次世界大戦の両方がある。そして二つの帝国によって父祖の土地を奪われた先住民族の歴史も、そこかしこに痕跡をとどめているのてある。

 ある土地の領有権を有利にする手段として、”実効支配”という方法があります。
ロシアは樺太(サハリン)の地においてそれを、流刑地にするというやり方で推進しました。
当時民間人が住むには、遠く、寒く、あまりに未開発の土地だったからでしょう。
その土地に流されてきたのが、「ブロニスワフ・ピウスツキ」でした。

ブロニスワフ・ピウスツキ

 Wikipediaを参考にして記述します。
1887年、アレクサンドル3世暗殺計画に連座して懲役15年の判決を受け、サハリン(樺太)へ流刑となる。

●サハリンへ着くと、初めは大工として働き始めたが、その後、原住民の子供たちの「識字学校」を作ってロシア語や算術・算盤教育を始める。
「識字学校」の教師の中には、日本と樺太アイヌの間に生まれた千徳太郎治がいた。
その後警察の事務局員となり、ニヴフ(ギリヤーク)との交流が増えるようになる。


1891年、同じく流刑されていた民族学者のレフ・シュテンベルクと知り合う。その後、ニヴフ文化研究及びニヴフ語辞書作成に没頭。

1896年5月14日、アレクサンドル3世の死後に行われた大赦により、懲役刑が15年から10年に減刑される。
この年になるとアイヌとも接触するようになり、資料収集を行う。
12月6日にはアレクサンドロフスキー岬で開館された博物館に資料を提供。翌1897年に刑期満了。


樺太が、全島ロシアの領土だったころの出来事です。



刑期を終えたピウスツキは、1899年にはウラジオストクへ渡りますが、1902年にアイヌウィルタ(オロッコ)の調査のため樺太へ戻ります。
年末には、樺太南部にある集落・アイ(日本名:栄浜村相浜)で村長バフンケの姪チュフサンマと結婚し、一男一女をもうける。
そう・・・
『熱源』に描かれた世界です。

 ロシア政府により、ポーランド語の使用を禁じられた時代を生きたピウスツキにとって、ロシアと日本によって、生きる場と文化をおびやかされつつあった北方の先住民族に寄せる思いは、ことさらに強かったと思われます。

二人の子どもは第二次世界大戦後、北海道に移住した。
彼らの子孫が現在も日本で生活しており、長男木村助造(1903年-1971年)の子孫はピウスツキ家唯一の男系子孫である。f:id:kyokoippoppo:20200717074244p:plain

北方の島、そこで生きた人々、先住民族ポーランド人ピウスツキとの交流・・。
先住民族の血をひいた人たちの現在。
その思い。

様々なことをごった煮にしたような記事になってしまいました。
仕方ありません。
私の気持ちがそうなのですから・・。
興味がゆっくりと渦をまき、未整理なままに動いているのです。
  

『大地よ!』『サガレン」を読み、それについてつらつらと綴ってたら、やはりいつのまにか『熱源』の世界”興味の源流”につながっていった・・・というそういうことです。