心に効く風景・・・マイナス15度の浜へ

マイナス15度、日の出前

 我が友がラインで送ってくれる写真・・角砂糖のような波消しブロック・流氷のオホーツク海・けあらしの海面・・・
大いに刺激を受けました。時には徒歩で浜に向かい,つどつどの風景にふれているようです。
そうだよなあ。
ここは心に効きそうな風景の宝庫ではありませんか?
素晴らしい風景を撮った写真なら、ネット世界にそれこそたあくさんあるけれど、出向くこと・・・・・これが大事だよなあ、と思った次第です。

で、くりだしました。
午前6時過ぎ、歩くにはちと遠いので車で・・。
役場の温度計の表示はマイナス15度。
走ること数分後、先客さんが三脚を立てて日の出を待っていました。
友達からの情報で知ってはいましたが、やはり流氷は沖に戻ってしまっておりました。
あいさつをかわし、私もスマホ片手にウロウロ・・・しかしすぐにやられました。
手が!指先が!!!あっという間に痛くなってしまいます。
スキー手袋をはいてきましたが操作するときは脱がねばならず、そのわずかの間に痛みだすのです。

日の出待ち

極夜の地では、こんな太陽の気配が南中時間のわずかの間にもたらされるのでしょう。
kyokoippoppo.hatenablog.com

私は早々に車に舞い戻り、手に温風を吹きかけながら日の出を待ちました。

日の出

f:id:kyokoippoppo:20190210091450j:plain:w320:right
自然の風景を写真に残すのは難しいなあ。
でも、浜に行ったということに本日の価値があるのです。

心に効くもの・・・・線香いっぽん

はてなブログ・・・一年あまりが経ちました。

「心に効くもの」というカテゴリーを設けてからというもの、次から次へと話題が浮かび更新しております。
 実際それらが実質的な得をもたらすわけではありませんが、自分の周りにある喜ばしいものを再認識することにより心は和み、落ち着き先を見いだすのです。
また、それを発信するのも楽しい作業です。

 自分の生活の足跡~書き留めなければどんどん流れて忘れ去られる気持ちや出来事~が残っていくのも嬉しいことです。
はてなブログを書くことそのものが、今や私の大きなはり合いとなり楽しみとなっております。
ブログを始めてから一年あまりが過ぎたのです。

今回は‘’心に効く‘’新習慣のことを書きましょう。

あらあ!忘れてた‼️

 昨年暮れに義父が亡くなりました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

いずれその時が・・・とは思っておりましたが、体調が悪化してからの衰弱はあっという間でした。
通夜があり、葬儀があり、年越しがあり、初七日の法要があり、そのうち集まっていた身内がそれぞれの生活に戻ってゆきました。
ふた七日、勤務開始・・・・と時は流れてゆき、ふと思えば我が父の命日が過ぎておりました。

  *  *  *  *  *

 父は今から10年前の1月28日に亡くなりました。
実際に絶命してたのは27日だと思われますが、命日は遺体発見の日の28日となったのです。
その日、午前中はスキー学習があり、山からは平野の向こうのオホーツク海が見渡せました。

(この写真は今年のものです)
職場に電話が来たのはその日の夕方。
夫からでした。
「お父さんが息していなくて運ばれたらしい、実家にその連絡が来た。」
というもの。
夫は多少気づかって表現をオブラートに包んだのでしょう。
え?よくわからない。
私はすぐに実家に電話しました。
「息してないってどういうこと?」

「あんた‼️お父さんは死んだんだよ‼️」
義母ははっきりと教えてくれました。
なにい!?!?
ビックリして涙も出ません。
父は自宅マンションのお風呂の中で亡くなっていたというのです。

 その日の夜には、私は京急川崎駅からJR川崎駅へ向かう通路を歩いておりました。
午前中はスキー場に居たのに・・・。
現実に気持ちが追いつかないのでした。
現地に着いたときには、父は病理解剖も済ませ、納棺され葬儀会場の冷凍室に保管されておりました。

その葬儀場は前年の春、4月に胃ガンで亡くなった母親の葬儀をとりおこなった場所でもありまして、結局父は妻の死後一年もたたないうちに後を追った形となりました。
まあ、私たちは後を追ったというより母が連れてったんだねというふうに思うことが強いのでが・・・・。

そう、父は心筋梗塞を起こし、そのまま湯船で亡くなったのでした。
  *  *  *  *  *
 スキーシーズンとなり、スキー学習で山へ行きオホーツク海を見ると、私は父のことを自然と思い出すのです。
しかし、この度は2月になってから
「あら、命日過ぎてたわ」
と気づいたのでした。
 
まあ、命日だからって特別なことするわけではないのですがね。
コンビニで花買って線香あげるくらいなのですがね。
それを忘れていたこということです。
f:id:kyokoippoppo:20190209065728p:plain:w200:right
しかし、そんな事と「心に効くもの」のテーマが上手く連動したとでもいうのでしょうか?
遅ればせながら線香をあげ、それをきっかけに「これからは毎朝線香をあげる習慣をつけようではないか!」と決めたのです。
これは‘’心に効く新習慣”となりそうです。
まだ、習慣化しておらず忘れそうなこともありますが、朝のルーティンに組み込まれるまで続けていこうと考えています。
※ 蛇足ですが、母の命日28日、父28日(おそらく実際に亡くなったのは27日)義父27日という事実にも縁を感じております。
おとうさん、おかあさん、そしてお義父さん
どうか見守ってくださいね。
あっそして、ミニロト一等でなくてよいのでヨロシク。

心に効くもの・・・・蕾

もう一つの鉢

 前々回に、「金のなる木」の差し芽について書きました。
瀕死の植物の小枝が、息を吹き返したことを喜び、記事にしたのです。
kyokoippoppo.hatenablog.com
 今回はもう一つの鉢植え植物についてを話題にします。(名前はわかりません。)
以前、お友達からいただいたものです。
植え替えもせずに、(一度ぐらいはしたかしら?)
春~晩秋までは外に、冬場は室内に置いておきました。
そして、室内に置くとなぜか少しずつ元気をなくし、葉は細り、弱り、枯れて数を減らしてしまうのでした。
それでも、その鉢を春先表に出すと、脇のところからつややかな新芽が芽吹き、何とか復活をとげるので秋まで放置し、冬場は室内に・・・すると・・
というようなサイクルで数年生きのびていたわけです。

 とうとう昨年の春には、残った葉は一片もなく、ただ土だけがある状態だったのですよ。
それでも、外へ出せば健気なことに新芽が芽吹いたわけです。
その年の霜がおりる頃・・・例年のように漫然と私はその鉢を室内に移動しようと持ち上げたところ、鉢の下部に開いている小さい穴から土を求めて根が伸び、決して豊穣ではない地面に執着するようにしがみついていたのです。

ごめんよ

f:id:kyokoippoppo:20190207191240p:plain:w320:left
ああ!なんと遅い気づきでしょう。
私はようやく鉢から植物を引き抜き、根の状態をみてやることにしたのです。
根はまるでプリンのように、鉢の形通りに抜けました。
中にポロポロの乾燥した土をわずかに抱き込んで、縮こまり固まっていました。


この状態で春を迎え、冬を迎えていたのです。
根は土を求め小さな穴から這い出して、土の精霊「グノーム」との交信を試みていたのでしょう。
kyokoippoppo.hatenablog.com

f:id:kyokoippoppo:20190207192042p:plain:w320:left
可哀想なことをした・・と私は自分の無精を恥じ、絡まった根をほどき、大きな鉢に土を入れ植え替えてやりました。
「それ!飲め!」とばかりにたっぷり水もやりました。
(二枚目のお絵描きはかなりアバウトだな)
まあ!!するとどうでしょう。

ご覧下さい。
この植物は我が家にきて初めて、茎を伸ばし、蕾を持ったのです。
いつ咲くのかな。
この蕾を見ることも、毎朝の私の楽しみとなりました。
花が咲いたら、この植物の名前も調べてみましょう。


これも「心に効くもの」の一つです。
 もう一つの楽しみであった夜明け前の金星と木星ですが、こちらの方はブログ記事にしてから晴天に恵まれずこのところお目にかかっておりません。

 明日は晴れるかな?晴れるにしても、明日は冷え込みが予想されております。
30年に一度級の寒波がくるのだとか・・。
もしそれが本当に30年周期なら、私は次を体験することは無さそうです。
しっかり味わうことにいたしましょう。

グノーム

見えないものだち

 私は今回、「妖精」を話題にしようと思っています。
「不思議なこと」というカテゴリーに加え、
「見えないものたち」
「シュタイナーに関すること」
という新カテゴリーも設けました。
この記事は、自分が得た知識のストックとしての要素が強いです。
引用と貼り付けが多いものになっております。
先にお断りしたおきましょう。

 前回のブログでは、「金のなる木」の小枝を差し芽にしたことを書きました。
その折、次は植物と関連が深いとされる「妖精」について書き留めて置こうと思ったのです。

根の精霊グノーム

 ルドルフ・シュタイナー著、西川隆範訳『天使たち妖精たち』は次のように書き出されています。

天使たち妖精たち―精神世界の霊的存在 (Steiner Books)

天使たち妖精たち―精神世界の霊的存在 (Steiner Books)

 外的に知覚できる、目に見える世界のほかに、不可視の世界が存在しています。目に見える世界と見えない世界とで、世界が形成されているのです。目を植物界に向けると、そのことがはっきりとわかります。

 植物は不思議な方法で大気圏の助けを借りて、種子から成長し、非常に多様な姿で地表に現れています

 意志を持たない植物がこのように自ら生長することを、私たちは普段当たり前の事象として捉えております。しかし改めて考えてみると、とても神秘的な営みであると感じないでしょうか?
また植物は、それぞれが次代の種子を残すための特性を持っており、それはまるで「知恵」のようであり、「戦略」のようでもあり、植物に意志が存在しているかのような錯覚さえ持ってしまいます。
シュタイナーはさらに次のように続けます。

 私たちが霊的なまなざしで植物界を眺めると、古代の本能的な透視者にも知られていた、一群の妖精たちが現れてきます。それらの妖精は忘れ去られ、今日ではただ詩に歌われるだけで、現実に存在しているとは思われていません。人間は植物界を理解しなくなったのです。

 植物は根を大地の中に伸ばしています。本来、何が植物から大地の中に伸びているのかを追究できる人、霊的なまなざしを持って根を正しく透視できる人は、植物のいたるところを自然元素霊(妖精・精霊)たちが取り巻き、活動しているのを見ます。この元素霊たちは、昔は「グノーム(土の精)」と呼ばれていましたが、「根の精霊たち」と名付けることができます。

 f:id:kyokoippoppo:20190206171927g:plain:w200:right

 さて、「グノーム」をネット検索してみたところ、それはやはり‘’土の精霊‘’であると説明されており、姿はこのようであると提示されておりました。
もちろんこればかりでなく、私たちに馴染みのある帽子をかぶった小人のような画像もたくさん見つかりました。

f:id:kyokoippoppo:20190206192645j:plain:w200:left 私はここで一つの疑問を持ちます。
シュタイナーが‘’見た精霊は、実際‘’形‘’として見えていたのでしょうか?


シュタイナーは、彼らの姿は肉眼では見えないと言うのですが、肉眼ではない心眼・・・・霊的なまなざしで見た場合、感知できるのは”姿形”なのでしょうか?
このあたりが私にとっては謎なのです。



文章は続きます。

・・・・・肉眼には見えませんが、彼らの活動は目に見えます。

根の精霊たちが仲介しないと、根は発生できません。根の精霊たちは地球の鉱物を流動させて、植物の根元にもたらします。もちろん、それは霊的な事象です。

 このように、読み進むとシュタイナーは”帽子をかぶったじいさん”を見ていたわけではなさそうですね。
帽子をかぶったじいさんを含む一連のグノーム像は、遠い昔、数少ない透視者が伝えた妖精の存在を、人々がもう少し身近にするためにイメージし、それが定着したものなのでしょう。

追記・・・本書を読み進めましたら、妖精には一定の形態を有するものと、絶えず姿形を変化させているものがあると書かれていました。
グノームは前者にあたり、さまさまな種類の、はっきりした輪郭のある形姿でとらえることができるそうです。
グノームは、‘’帽子をかぶったおじいさん‘’ではないまでも、何らかの形を持ったものらしいですね。


妖精にはグノームのほかにも、
ウンディーネ
シルフ
サラマンダー
などがいるのですが、こちらは気が向いた時にでも追々綴ってゆきましょう。

 ネットで見つけたこちらの記事も貼っておきます。
「グノームワールド」という名のブログです。シュタイナーの思想を伝える内容になっています。
ameblo.jp
下記の文章が印象に残りました。

妖精や天使は、もちろん、人が考え、分類した呼び名でしかありません。
本当のところ、どんな物でできているのか、思念だけが存在するのかは、未だ謎ですが、確かに存在するのは確かなのです。
たとえば、仮に、自分が、妖精や天使と接触できたとして、彼らから情報を貰ったとします。
その言葉の言語がなんであれ、自分が知りえない情報だとすれば、明らかに、妖精や天使は、存在するのです。

「天使」「妖精」という言葉はなるほど、人間が名付けたものなのです。
「グノーム」とか「シルフ」なども・・・・
であれば、日本にもその土地の中で伝えられた妖精の形や名称があるはずですね。
それを探っていくのも楽しいでしょうね。

心に効くもの 金のなる木

金のならない木

 『金のなる木』という植物をご存知ですか?
園芸名を『カゲツ(花月)』といい、和名は『フチベニベンケイ』というらしい。f:id:kyokoippoppo:20190204192337j:plain:w320:right
友達の家にもあります。
夫の実家の玄関には大株があって花が咲いています。
次の葉が大きくならないうちに五円玉を茎に通しておくと五円玉が茎に連なるようになります。
こんなことから『金のなる木』と呼ばれるのかしら?それとも肉厚でボリューミーな葉が”豊か”をイメージさせたのかしら?

f:id:kyokoippoppo:20190204192025p:plain:w250:left

苦労してお絵描きしてみましたが、葉っぱは十文字に交互についていなければなりませんね。
まあ、大目に見て下さいませ。
実家にもそんな風にしていた株がありました。
今あるものは自然のまま育て、大きな株となって寒い玄関に置いてあるのです。

 
 手をかけなくても育つ丈夫な植物らしいのですが、我が家はこれを何故か枯らしてしまうのです。もう二鉢も枯らしてしまいました。
正確に言えば水をやり過ぎて、人間でいえばむくんだ状態となり、上を向くはずの茎はでろんと下を向き、葉っぱがボロボロと取れてご老体のような姿になってしまったのです。
『金のなる木』はその名の通り金運を呼ぶ景気のよい植物といわれておりますが、我が家ではこれが枯れてゆく。
残念な話ではありませんか‼️

置き去りの小枝

 昨年初冬、ご老体と成り果てたこの木を鉢ごと外へ持ってゆき土に返したのですが、その際まだいきのよい部分を取っておきました。
差し芽で根付くと聞いていたからです。
調べてみましたら、しばらくは乾燥させよ、ということでしたので台所の出窓にぽろんと置いておきました。
そろそろ植え時なのかな?と思いつつ、日が過ぎて日が過ぎて日が過ぎていきました。
鉢を用意し、土を用意することを先伸ばしにしているうちに雪も降り、物置小屋の前にも雪が積もり出入口は塞がれてしまいました。
たぶん私はこのまま植えないだろうな・・・そんな気分が濃くなってゆきました。
そうなると、その小枝は何のためにそこにあるのか?さっさと捨てれば良いものをただ置いておくことさらに数日・・・・。

生きようとしている

 そんなある日、小枝が白く細い根を出しているのを見つけました。
ストーブたきっぱなしの乾燥した我が家の空気の中に放置されていた小枝・・・・。
なんとそれは生きようとしていたのです。

私は物置小屋に向かいました。
雪をよけて、扉を開けて鉢を探し、買い置きの土を入れ小枝を差すと慎重に水分を補給しました。
余分な水は禁物のようですからね。

・・・なるか?

f:id:kyokoippoppo:20190205054612j:plain:w310:right その後、金のなる木は次なる葉を付けました。
病後の赤子のようにまだたよりなく、背筋も曲がり顔色もわるいのですが、私はこの子を育て直しますよ。
どこまで大きくなるかな?
金がなるまで育つかな?
植物は大いに人の気持ちを和ますものですが、これに慈しみ育てるという要素を加えれば、さらなる楽しみとなるでしょう。


 そう、これも心に効くものだよね。
kyokoippoppo.hatenablog.com

心に効くもの…金星と木星

夜明け前の東の空に・・

  私の起床時間は午前5時です。
日の出が早くなっているとはいえ、外はまだ暗い時刻です。
朝慌しいのが嫌なのです。
これくらいの時刻に起きればあまりばたつかなくて済みますのでね。
とはいえ、起きたら着替えて、洗濯物の量によっては洗濯、お湯を沸かし、味噌汁を作る(ちょくちょくさぼる)・・・。夫のお昼のおかずもなるべく用意します。
パソコンの電源を入れ、ポイントがもらえるニコ動の福引を回します。そのポイントは長男がアップしている動画の広告に使うのです。
ウエブマネーを使わない広告がどれだけ宣伝効果を発揮するものかはわかりませんが、日々の日課となっているのです。
f:id:kyokoippoppo:20190203185828j:plain:w380:right
 こんな風にそこそこ慌ただしく、夜空に意識を向けることなく過ごしていたある日・・ふと外に目を向け驚きました。
「おや!まあ!!」
美しい三日月のそばには煌煌と輝く金星と木星がはっきりくっきり見えたのです。
2月1日のことです。
スマホで写真を撮りましたが、木星までを収めようと思うと上手くゆきませでした。
右の写真(スマホでは上)・・・月と金星です。


f:id:kyokoippoppo:20190203170049j:plain:w310:left
その日のホロスコープをすくに調べてみました。
全ての惑星(キロンも含む)が円の片方(130度程の範囲)に寄っている独特の配置です。
月と重なるように金星(♀️)がありますね。金星の右側にあるのが木星です。
そして月をはさんで反対側にあるのが土星のマークです。(ひらがなののように見えるのがそれ。)


前日29歳になった娘の出生時の土星の位置に回帰しつつある土星です。
kyokoippoppo.hatenablog.com


f:id:kyokoippoppo:20190203162744p:plain:w310:left
こちらの画像も貼り付けてみました。
こんな感じに見えたのです。
土星は残念ながら我が家からは木立の陰となってしまい見ることはできませんでした。
翌日は土曜日で休日でしたが、私は目覚ましをかけました。再び写真撮影に挑戦しようと思ったのです。

2月2日

 月の姿がありません。
 そうだよ、月の出は日々約1時間ずつ遅くなることは『極夜行』にも書いてあったよな、と思いながら視線を落とせばありました。
先日よりさらに鋭利になり木立の間でほんのり赤く、ナイフのように光っていました。
視線を戻せばいならぶ金星と木星が・・・
残念ながら写真はやはり難しい。気に入るものは残せませんでした。

2月3日

そう、これだって心に効くものだよな。私は今朝になって気づいたのです。
午前中にこれを投稿して、
kyokoippoppo.hatenablog.com
夜続けて本ブログを公開です。

明日から

 明日からまた一週間の勤務が始まるけれど、朝起きたらまず私は、東の空の惑星二2つとアンタレスの輝きをみ見ることでしょう。
一方月は、明日にはいよいよ太陽に接近します。
それが昇るころには太陽も「おはようさん」して目でみることはできないでしょう。

翌日の追記・・・
おはようございます。
本日曇天でございました。

心に効くもの

光の春

 ブログで続けて話題にしてきた一冊・・・『極夜行』を昨日図書館に返してきました。
節分を迎えるこの時期は「光の春」とも呼ばれるそうです。
alg.jp
(ほほう、ロシアで生まれた言葉なのですね。)

なるほど、2月に入ったばかりとはいえ、南中の太陽はピカピカで、雪に反射して眩しかった。
『極夜行』の舞台になった土地ではまだ暗く、吹雪が猛威をふるっているのかもしれません。
しかし、南中時刻にもなれば南の一角がほの明るくなり、少しずつ近づく太陽に期待を寄せる頃なのでしょう。

もちろん私が暮らすこの地だって、これからも吹雪模様の日は訪れるでしょうし、春そのものを実感するのはまだまだ先の話です。

空っぽな感じ

 図書館で次なる本を借りてきました。
が、『極夜行』の印象がとても強かったために、帰りは何だか空っぽな気分だったのです。
実は朝から気持ちは下向きでした。
些細な出来事をきっかけに私の心には不安の霧が立ちこめていたのです。

でも、いや、うん、そうだ・・・・・
私は私に声をかけます。

極夜行を読んだのではないか!
失望に次ぐ失望を角幡氏は味わったのではないか?
「あああ!」
と悲嘆の声をあげ、
「終わった」
と呟いたのではなかったか。
その時点では彼はその状況を呪いあがき、別の活路を探し逃れようとしました。
しかし後に、実はそもそも自分の旅の目的はそれであったのであり、その絶望を起点とした模索に絶大の価値があったことに気づいたのです。
彼が果たした旅とスケールこそ違え、人々の人生にも同じようなことがいえるはずなのです。

いやあ、そんな大きな話を引き合いに出すほどのことが私に起きているわけでもないのです。

でも、私の心は曇っていたわけです。
この朝
この頃ちょくちょく訪れては読んでいる「サチコ」さんのブログを開きました。
この言葉を味わいました。
funcyqutton.hatenablog.com
私は慰めになるものを欲していたのでしょう。ちょっと寄りかかるものが欲しかったのです。
コメント寄せたところお返事までいただき、一息つくことができました。

やっと話がもどります。
図書館帰り、それでも妙に空っぽな気分を携えて戻ってきました。
「ブログ・・・何書こうかな?」
発信するものも枯れたような気持ちになりました。



❇️  ❇️  ❇️  ❇️  ❇️  ❇️

心に効くもの

 早い復活です。
書くこと決まりました。
心に効くもの」です。不安の霧が立ちのぼってきたら、まずそれを味わいましよう。
おろおろし、ざわざわするどうしようもない自分の気持ちに従いましょう。

次にそれを晴らすための”太陽の光”のようなものを探しまょう。
身近にある小さなものから見つけましょう。
そしてそれを発信しましょう。
カテゴリも追加
「心に効くもの」

で、本日はここに貼り付けた二つのリンク先を”心に効くもの”にエントリー。
双方画像が美しく、それだけでも気持ちいいし、内容にも興味がそそられます。

本日2月3日・・・今日もピカピカの晴天です。

追記
 図書館で借りてきた東野圭吾昨『手紙』・・・
良かったです。

手紙 (文春文庫)

手紙 (文春文庫)

 強盗殺人を犯した兄から手紙が来るたびに、自分の人生が負の濁流に呑まれていくようで、忌避し続けていた弟直貴でしたが、最後の最後で解るのです。

手紙が届かなければ苦しむこともなかっただろうが、道を模索することもなかった。

と。
‼️‼️
先程書いた自分の「模索」のワードがすぐに頭にのぼりました。

その絶望を起点とした模索に絶大の意味があったと気づいたのです。

小さな奇跡を感じました。