きれいな朝
その日も、静かな、灰色の真珠のような感じの日でした。
ああ、とてもきれいな朝。
アンナがマーニーと初めて会う日は、このような朝で幕を開けます。
『思い出のマーニー』と『異人たちとの夏』について、原作 映画作品を取り混ぜて、思いのままに書いております。
が、今回とりあげたのは、『思い出のマーニー』の原作についてのみです。
素晴らしいその日の朝の描写に戻りましょう。
その日も、静かな、灰色の、真珠のような感じの日でした。風はなく、こんな天気の日には、空と水は一つにとけ合ったように見え、なにもかもが、やわらかく、さびしく、夢の中のようにぼんやりしていました。
このような天気は、リューマチ病みのサムにとっては、悪魔に釘抜きでねじられるみたいに痛む辛いものなのですが、アンナにとってはとても好ましいものなのです。
彼女の気持ちに馴染むものなのです。
しかし、アンナに待ち受けていたのは町の子サンドラとの鉢合わせ。
彼女の意地の悪い挑発に乗り、アンナは相手に
「ふとっちょぶた!!」
という言葉をぶつけてしまいます。
それに対して返ってきたのが、
「あんたは、“あんたのとおり”に見えている」
というもの。
この言葉は彼女を打ちのめします。
アンナは、自分がどんな子か、知りすぎるほど知っていました。みにくくて、ばかで、不機嫌で、とんまで、不愉快で、ぶさほうで・・・だから、だれにもすかれない・・・
素晴らしい朝はすっかり汚れてしまいました。
午後いっぱいアンナは、砂丘のくぼみに寝ころんで、なんのことも、だれのことも考えずに、過ごしたのでした。
水に運ばれて
その夜、ペグおばさんはビンゴに出かけ、
サムおじさんはドミノ・ゲームに出かけてゆきました。
ひとりの夕方。
アンナは、静けさとだれの手もとどかない“ほったらかされ”の状態にくるまれて一人の夕食を終えると、外へと出て行ったのです。
昼間、何も考えず、誰のことも思わず空っぽになったアンナが、ひとりぼっちになる。
からっぽになったからこそ、そこに何かが入ってくるのだと考えられますね。
朝始まった序章が、泥ぬられたようでいて、実は着々と「マーニー」との出会いの準備となっていることに気づきます。
しめっ地は潮が満ちており、まるでアンナをまっていたかのように一艘のボートがありました。
導かれるようにそれに乗ると、ボートは引き寄せられるように動き始め、お屋敷の船着き場へと向かってゆきます。
そこで待っていたのがそう!!「マーニー」だつたのです。
原作と比べて、「映画での杏奈」は、「アンナ」のやや粗野な部分を差し引かれて描かれていると感じます。
片や、
「映画でのマーニー」は「原作マーニー」の持つ”親密さの表出としての毒気”(といって良いものか?しばらく立ち止まるも他の表現が見つからず)が差し引かれて描かれていると感じました。
2014年当時の日本の子どもたちに届けるに際し、微調整を施し、若干ソフトになキャラクターに作り変えたのかしら?
目の前に突如現れた人物を前にアンナは
「あなた、本当の人間?」とたずねます。
お互いに触りあうと、その手はあたたかく、その子は生きている人間なのでした。
女の子は、絹のような薄物のドレスを着ておりました。
片やアンナは、短パン姿。
ボートに乗るとき靴は脱ぎ捨てていたので裸足。
そんな、アンナに女の子は聞きます。
「あなたは乞食なの?」
女の子は、「あたしは、村の子とは遊んではいけないことになっている。でも、でも、あなたはと知り合いになりたい。」
と切望するのでした。
自分はだれからも好かれないと思っているアンナに向けられた、ストレートなメッセージが、からっぽなアンナに流れ込んできました。
おばかさん
アンナにとっての”マーニー”の魅力は何なのでしょう。
現実生活では、友達づきあいがどうしても上手くゆかないアンナですのに、何故、マーニーとはいとも簡単に友情関係を結べたのでしょうか?
そもそもアンナとマーニーを結ぶ縁があったことが、大きな要因といえるでしょう。
互いの関係を知らずにいても、血でつながる何かが二人を結びつけたと考えられます。
物語を楽しみ、映画の楽しみにひたるなら細々した分析をする必要などおいといて、そこに飛び込んでしまえば良いし、
実際私の楽しみ方はそのようなものでした。
しかし、一連の記事を書くに当たって原作を丁寧に読んでみますと、新しい発見のようなものがあり、それも書き残したくなるのです。
前述で、言葉に迷いながらも「毒気」と書いたそのこと・・・。
・
・
・
その夜アンナはマーニーに
~あなたはまだ来たばかりだと思った~と言う。するとマーニーは声をたてて笑い、かがみこむとアンナの耳にささやく。
アンナの耳はむずむずする。
「おばかさん。来たばっかりなんかじゃないわ。あたしはずうっとここにいるのよ。」
アンナはマーニーはお屋敷に住む恵まれた女の子だと思っている。
パーティーから抜け出してきたから、そんなドレスを着ているのね。
ボートで送ってもらったアンナは言う。
~わたしならここで降りてもだいじょうぶ。~短パンをはいているので、水のある所で降りても大丈夫なのだ。
そう言うアンナにマーニーはいう。~どういう意味?~
「ああ、わかった!あたしのドレスのことをいってるのね。男の子の服を着ている、あわれなしょぼくれアンナさん!あなたも、あたしみたいなかっこうがしたいの?」
さよならをかわしたあとに、水をわたって声が聞こえて来る。
「おばかさん。これはあたしのおねまきよ!」
マーニーを探すアンナ。
どこにもいない。
あの一家はどこかへ行ってしまったのだろうか?
そう考えるアンナがボートをのぞきこむとマーニーが・・。
~あなたは、もうどこかに行ってしまったと思ったわ~と言うとマーニーは
「ばかね。あたしはこの村に住んでるのよ。」
~だって、ちっともあなたに会えなかったんですもの~
「おばかさん今会ってるでしょ。」
こんな風に「おばかさん」というマーニー。
作者はあえてこのようなキャラクターをこしらえたわけです。
何故?
と考えてみました。
アンナを育ててくれる養母ミセス・プリンストンは、愛情深くアンナを育ててくれており、アンナもそれは十分承知しています。
しかし、ミセス・プリンストンは必要以上に、アンナを傷つけないように心がけるのです。
愛が疑われないように振る舞います。
国から小切手が届くけれど、決してそのためにアンナを引き取ったわけではありません。
しかし、養育のためのお金が支給されていることを、どうもアンナは知ったらしい。
そのことで、ミセス・プリンストンのおそれが増してしまいました。
親愛の情に、アンナに疑われてはならない、誤解されてはならないという不自然さが混じるようになってしまったのです。
アンナはそれを察知しました。相手の様子を窺いながら言葉を発し、行いをするミセス・プリンストンのやることなすことが、演技のように見え始めるのです。
二人の間には壁ができ、もうアンナは”ふつうの子ども”のように振る舞えなくなったのです。
ですから、アンナの前に現れ、友情を結ぶのなら、まったく頓着なく「おばかさん」と言葉をぶつけるような存在が相応しいと考えたのではないでしょうか?
そんな風に思いました。
今記事は、原作『思い出のマーニー』で埋め尽くしてしまいました。
苦戦しましたがようやくアップ!!