異世界へのいざない・・② 『思い出のマーニー』

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 『異世界へのいざない』と題して、『思い出のマーニー』と『異人たちとの夏』について、思いのままに書いていくことにします。
背中を押してくださった皆さま!!ありがとうございます。
向かうべき着地点があるわけではありませんし、整合性のある物語分析を目指すわけではありません。
「すてきだわあ!!」
とか
「よかったわあ!!」
というにすぎない感情的な思いに、どんな肉付けが可能なのかわかりません。
ただ、『伝蔵と森蔵』のときのように、『犬ものがたり』のときのように・・・・その世界にとどまって何か書いておきたいという気持ちなのです。

 先日、早々にお布団に行きしたことは、「検索」・・。
思い出のマーニー
「ブログ」
と打って検索したのです。
他の方がこの映画にどのような感想を持たれたのか?・・ちょっと覗いてみたくなったのです。

おおおお!!!当たり前といえましょうが、酷評もありましてね。
もちろん好評価もありましたよ。
それらを読んでしまいますとね、
「ええ!!?このように分析して鑑賞なさったのか!!」
とか
「ああ・・このようなことに違和感を感じるのか!!」
と、自分の視点にはないことがたくさん見つかるのでした。
百合
という言葉も始めて知りました。

女性同士の同性愛、またはそれに近い親密な関係のこと。下級生が上級生を“お姉さま”と呼んで慕う姉妹的な関係、少女同士の精神的な結びつきを重視した特別親密な関係も含む。

(用語集 numanよりコピー)
ええ~?!百合とな??
記事を書く前に検索なんてするもんじゃあありませんね。

それ見たことか!!!
それらを読んだ後、「私は何を書きたいのか?」「書くほどのことがあるのか?」
と思ってしまい・・・・・・
うーむ、どうしようかな?



そうね、それでも、私なりに気ままに、『思い出のマーニー』を綴ってみることにいたしましょう。
そして、この作品と並行して『異人たちとの夏』についても書いてゆきます。
二つの作品には数点の共通点がありますが、だからといって並べて話題にする理由を、確かなものとして持っているわけでもないのです。
ただ、そうしてみたいと思ったまで・・・。

向かうべき着地点があるわけではありませんし、整合性のある物語分析を目指すわけではありません。
と重ねて前置きをして、ふわりとゆるやかに出発です。

釧路でいいし、札幌でいい

 原作での主人公「アンナ」は、ジブリ映画では「杏奈」という名で登場します。
喘息の緩和や心身のリセットも兼ねて、札幌から、養母の親戚の住む”海沿いの田舎町”にやって来ました。
そこはあくまでも架空の町なのですが、観る人は自然と湿原を有する「釧路」を連想することでしょう。
また、実際に釧路の湿原や、海跡湖である藻散布沼(モチリップトウ)が舞台のモデルになっていると言われております。

この作品への苦言として
「なんで札幌?何で釧路よ?そこに洋館かよ!!」
という感じのものがありました。
しかし、あくまで舞台は「くしろ」を連想させる「とある町」なのです。

舞台にどうしても必要なものは「しめっ地」です。
さらにその水辺は、潮の満ち引きを伴って欲しい!
潮が満ちた時に、館の窓の灯りがともるのです。
潮が満ちたときに、二人は会うことができるからです。


f:id:kyokoippoppo:20200528213540j:plain:w200:left 後半の大事な場所として、原作では「風車」が出てまいります。
ここで物語は、大きな転換点を迎えます。
映画においても、「風車」か、それに代わるものが必要です。
そこで採用されたのが「サイロ」です。
現在の酪農現場では、「ロールベールサイレージ」(写真)として、丸くラッピングする方法で牧草が貯蔵されますので、サイロはもう使われておりません。
しかし、いまも酪農家の敷地には、現役を終えた名残りのサイロが多く残っているのです。
いかにも北海道らしい貴重な風景だと感じます。
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(写真は「マイナビ農業」のページからお借りしました。)

 


 そして・・・・
「アンナ」は、ロンドンから2時間近くの鉄路の旅によってノーフォークにやって来る、という原作に近づけるのであれば、
「杏奈」の住む所は「札幌」という設定で程よいのです。

舞台設定への苦言を目にしてしまったあまりに、それに対抗したかのような内容になってしまいましたね。
ただし、あくまで舞台は「くしろ」を連想させる「とある町」なのです。

ひとりきりになること

 「アンナ」そして「杏奈」が佇む場所は大切な舞台装置といえますが、舞台に加えて大切なことは、
杏奈がそこで”ひとりきり”になるということ。
これがとても大事なポイントだと感じました。

杏奈は、幼い頃に身寄りを無くし、養父母と暮らす少女です。
自分は常に世界の外側に取り残されていると感じており、友達と結託なく打ち解けることができません。
養母に対しても心を閉ざしがちになっています。
孤独感を感じながらも、他者に踏み込まれることを拒んています。

彼女はただでさえ「ひとりぼっち」なのです。

それでいながら、杏奈の中には常に「他者」がいます。
私は外側
あの子たちは内側。
私は普通(みんなと同じよう)じゃない。
おばさんは身寄りのない私を育ててくれた人。
血のつながりのない私を。
おばさんにとって私はどんな存在なのだろう。
おばさんは、私に対してびくびくしていて私を苛立たせる。
私はどう振る舞えば良いのだろう。
ああ!煩わしい。

杏奈の中には、常に他者が置かれており、その関係性のなかで孤独を感じている。
そのように思います。

杏奈は、この自分をさいなむ関係性から開放されたかったのではないでしょうか?
だから、あわや取り込まれそうになった土地の子どもの輪からとっさに逃げようとして、
「放っておいて!!ふとっちょブタ。」
というとんでもない暴言を放ってしまったのではないでしょうか?

杏奈はようやく、「ひとり」になりました。
杏奈を預かった夫婦は、杏奈を程よく放っておいてくれました。

ピティ ミー  ピティ ミー

 利用できるようになった図書館から、
思い出のマーニー』を借りてきました。

ここには、「ひとり」を手にいれたアンナがいます。
文章がとても素敵です。

 アンナは、水ぎわまで歩いて行って、しめっ地のむこうをながめました。日があたって金色にかがやいている砂丘のなだらかな線が空と陸とをくぎり、その両側に、青い海がすじになって見えていました。小さな鳥が一羽、入江(クリーク)の上をとんでいきました。鳥はアンナの頭すれすれにとんで、みじかい、もの悲しい声で鳴きました。四、五回つづきの、同じような調子の声で。それは、
‘’ピティー ミー!オー、ピティー ミー‘’(あたしをかわいそうだと思ってよ、思ってよ)とでもいっているようにきこえました。
 アンナはなにも考えずに、ただ、あたりをながめて、物音に耳をすませていました。しめっ地と、海と、空との、大きな、静かなからっぽさを胸いっばいにすいこみながら、じっと、立っていました。
そのからっぽさは、今のアンナの心の中にある、小さなからっぽさと、とてもよく似合うように思われました。その時、とつぜん、アンナは、ふりむきました。だれかにじっと見られているような、ふしぎな感じがしたのです。

ひとりになった杏奈に・・・
からっぽになったアンナに・・・・
何かが近づいてきます。

続きは次回。