私の紙事情②

矢継ぎ早に「紙事情②」を書きましょう。
「いつか何かに」という思いから、何故にチマチマと紙類を捨てられず取っておいたのか?というお話しです。

紙ビーズf:id:kyokoippoppo:20181118101114j:plain:w260:right

紙で作るビーズのことを知ったのは10年以上前。
ちょうどその頃、小さな児童館で働いておりました。放課後の子どもたちと遊ぶお仕事。
その年の年度末まで、私は隣町(今は合併により同じ町になっております)の小さな小学校で働いており、そこで人生初であり最大であった苦しみに見舞われておりました。
まあ、本題には関係ないので過去ブログは読み飛ばして下さってけっこうですよ。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 そこを脱してまだ心が生傷状態のまま、私は児童館の仕事を得たのです。
ここで私は、私のままでいることができました。
「こんにちは!」
とやってくる子どもたちと楽しい時を共有しました。
私の心はここで手当てを受け、回復に向かったのです。

さて、紙ビーズはさっそく遊び道具になりました。f:id:kyokoippoppo:20181118101943j:plain:w160:right
糸につないで首飾り、ブレスレット・・・・・おままごとの材料にも。
巻いたときに現れる模様が魅力で、そうとなれば素材は広告のチラシや雑誌の1ページなど無限・・・・。
くさび型の紙を切ってはストックしておりました。

きせかえ折り紙

折り紙きせかえ人形

折り紙きせかえ人形

f:id:kyokoippoppo:20181118104901j:plain:w250:right
これも私の心をつかみました。
しかし、人体になる肌色の(ああ、そういえば今は肌色って言わないのですよ。うすだいだい色っていうのでしたっけ?ずいぶん堅苦しい考え方だなあと感じてしまうのですが。)折り紙が足りなかったり、ペラペラだったりして使いづらかったのです。そこで利用したのがこの茶封筒。

服に使う紙は色々。
今や百均で、様々なデザインの折り紙が手に入りますが、包装紙だって有用な素材です。

現在小学校の支援員として働く私。
教室で、このきせかえ折り紙は女の子のお楽しみになりました。
子どもたちは、折る作業を省いて切って貼って済ませるなど自由自在。

楽しみが広がるのでした。

しかし、
いつか使うと,実際使ったの間には大きな開きがありまして
・・・・・・で、紙はどんどんたまっていき、捨てることもしなかったのです。
それでも
この度のお片付けで、ようやく選別、処分が進みました。
いっぺんにえいや!と捨てないことや
選別の程度に私の問題があることはわかっておりますよ。
しかし!!
これはもう私の一部です。紙や布同様いましばらくキープするのです。

私の紙事情①

写真どうしています?

f:id:kyokoippoppo:20181117075219j:plain:w200:left
 そのうち書こうと思いながら、先伸ばしにしていた私の紙事情です。
 

今週のお片付けは、進展が著しく鈍化。
布を合間合間にカットし、ほんの数枚つないだだけでした。


ですから、今回は先送りしていた
‘’何故私が紙を溜め込んでいたのか?‘’について語りましょう。

 そもそもはアルバム整理を思い立ったのがきっかけです。
あるものは分厚い’’ふえるアルバム’’に、あるものはその時その時気にいって買ったポケットアルバムに・・・・というように、様々なものに散らばっていた子どもたちの写真を整理しようと思ったのです。
B5版のポケットファイルを利用することにしました。(百均で手に入ります。)
 台紙ははじめ、在庫の色画用紙をつかっていましたが、すぐに在庫切れ。どうしようか?と考えた結果
ああ、我が家や職場に常時ある定形外封筒で良いしゃない!と思い立ちそれを利用。
色も何種類かありますし・・・・。
 また、ただ写真を貼るだけではつまらないので、例えば雑誌の中のかわいいカットや、娘が買って使わずに残されていたファンシー封筒の柄を使って、デコレーションというほど飾り立てるわけではありませんが少々工夫を施したのです。f:id:kyokoippoppo:20181117074659j:plain:w150:right
封筒とセットのびんせんは、メッセージを書くために使えたし,f:id:kyokoippoppo:20181117074858j:plain:w150:left
ギザギザばさみで切った細い紙は台紙の縁取りにしたりもしました。
そんなふうに紙を利用したのです。

アルバム整理の作業は気が向いたとき、合間合間に行ったので10年以上を要したでしょうか?
つまり長きにわたり、雑多な紙が部屋に放置状態だったということ。
f:id:kyokoippoppo:20181117081121j:plain:w100:left

 子どもの写真そのものが減りましたし、もっぱら携帯画面で見るものに変化したため、今現在せっつかれる作業はないものの、まだ未整理のものが残っております。

いつ片付けるんだい???

 そうこうしているうち、写真はある程度整理されたものの、多量の紙類が残されることになりました。
アルバム整理にそこそこメドがついたなら紙は処分すれば良いものを、
私の「いつか何かに・・・・」という思い癖に加え、残った紙が余りに雑多なため分別そのものが億劫になり、(だから!!!!!!!分別いらんだろ!!!!という声高らかなのは重々承知しております。)箱やらケースやらに突っ込んだままさらに放置されていたのです。

あまりに雑多ならばこそ捨てれば良いのに、それがために捨てられない。
大変悪い状況です。
そもそも、紙をいつ何に使う?と思われ方もたくさんいらっしゃるでしょう。
それは、次回にね。

サンドイッチできあがり

旅一区切り

 林竹二について書こうと思い、どう書いていこうか?と迷った結果
「そうだ、急ぎ旅ではないのだから」
と呟いて、戦後の教育や子どもを巡る事象に、自分史も混ぜ込みながら綴ってきました。
とりあえず、林竹二を書くところまではたどり着きました。
林竹二氏が遺した言葉や実際の業績など、伝えられることはまだまだ残っておりますが、それをくまなくここで語ろうとすれば、一冊の本並みになってしまいます。
しかもその内容の多くが、自分が未消化なままのものであり、所詮人の言葉を借りて書き写すものになってしまうでしょう。
私の中で、「さあ、書こう」というベクトルを生み出しにくくなってきたことも正直なところ。

 10月からは、『我が家のお片付けブログ』も書いており、林竹二とお片付けの記事がサンドイッチ状態になっております。
前回がお片付けでしたから、今回は林竹二です。
そして今回の記事をもって林竹二から、離れることにいたします。

常に新しい授業

私は先日190回目の授業をしました。授業は主に「人間について」で、「開国」が24、5回になるでしょうか。だから「人間」についてが圧倒的に多いわけです。でも、160回以上も同じものを繰り返したという意識は全然ないのです。というより、これは繰り返しようがないんです。相手が違うんですから。だから、子どもが授業の主人公である以上は190回やれば190回が、その都度新しい経験であるわけです。テーマが同一かどうかは関係ありません。相手になる子どもの前に立ったとき、授業はその都度新しくはじまるわけです。

(漢数字はアラビア数字にして記述しました。)『からだ=魂のドラマ』より(林竹二/竹内敏晴対談)

同書には次のような言葉も。

具体的に授業の形がきまるのは、やっぱり最初の質問に対する答えが一つのきっかけになりますね。だからさいしょの子どもがなるべくドマドマしてくれるとありがたいのです。

 林氏自身がまごまごさせられれば、一番良いけれど、せめて最初の子どもにはまごまごしてもらいたいと語るのです。
「はい、あなた。」
と指して
「はい~~です。」
と答えられ、予定調和的な応答が続いても、それはなんの求心力も生み出さないでしょ、というわけです。
ですからむしろ、まごついて戸惑う場面にみんなを立ち会わせたいのです。
指名されたこの子はどうする?どう答える?
さて自分なら?とグラスの子どもたちの気持ちが向かい、求心力が生まれ、問いが共有されてゆくのです。
全く先入観無しに子どもに向かい問いかける。そしてその先はどのように展開するのか未知のもの。
190回行えば190通りの展開になるのです。

生きている授業

 ここで話題がちょいと飛びます。
私はブログを書き進めるために、手持ちの林竹二関連の本をとっかえひっかえし読んでおりましたが、合間に別の本も読むのです。
‘’ブログのためではない本‘’が、一日の終わりには必要です。
過日手に取っていたのは『「普通がいい」という病』という本。

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

 心配しても仕方ないと思いつつも長男のうつ病に対して、打開策はないものかと思ったり、自分はこのことをどう受け止めたら良いのか?と迷ったりして、時にネットの世界をさまよう私です。
そこで見つけたのが、泉谷閑示という方のメッセージ。「おっ?」と思えるような言葉に触れ、
本も出しておられると知り、この本を図書館にリクエストし読みました。

心、身体、頭の関係と、これらがどのように作用し合い、どのような状況を生むのかが分かりやすく解説されておりました。
丁寧に何度か読みかえしたいと思わせる内容でした。

この本の中に即興について述べられている箇所がありました。ここを読んだとき前述で紹介した林氏の言葉がすぐに思い浮かんだのです。
「林氏が目指したものと同じだな、林竹二の授業は生きていたんだ!」
と納得できました。

<生きているもの>にとっては、マニュアルではなくある種の即興性が大事です。(中略)
中には、「即興」とはいい加減なことなんじゃないかとか、手抜きなんじゃないかと考える人もあるかもしれませんが、「即興」とは最も生きているやり方なのです。十分に下準備した上で即興を大切にするということは、単なる手抜きの行き当たりばったりとはまったく別物です。(中略)
即興性とは、常に新しいひらめきがあり二度と同じものはないということですが、セラピーにおいても、それが生きているセッションになるのか死んだセッションになるのかを分ける大切な要素になります。


またおもしろいことに、泉谷氏もセッションの流れは最初の数分にあるといっておられます。

はじめの数分の中にその日のセッションの総目次が現れているのだという大切なことに、ある時やっと私も気づいたのです。

 息子のうつ病の心配が、興味深いメッセージとの出会いをもたらし、さらにそれが直接関係の無さそうな「林竹二」の言葉ともつながったことを面白く感じました。
さらにうれしいことに、泉谷氏のメッセージは、このブログを始めたきっかけである「ネガティブ・ケイパビリティ」ともつながりました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

kyokoippoppo.hatenablog.com


 そんなわけで、このブログは林竹二からバトンを受け、泉谷閑示のメッセージや、ブログふりだしのネガティブ・ケイパビリティへと繋ぐことにいたしましょう。
林竹二とお片付けのサンドイッチは今回で出来上がりです。f:id:kyokoippoppo:20181114062753p:plain:w250:left(せっかく描いた絵に謎のクロポチが・・・そのままで失礼)
次回からしばらくは気まま旅。
お片付けの方は、続けますよ。(とはいえ現在停滞気味ですが。)

我が家のお片付けブログ 第6話 広げて捨てて 並べて積み直す 

 我が家のお片付けブログです。
先週金曜日に風邪をひき、翌日土曜日はそれでも髪を切りに行き、片付けの方は進展無し。

で、新たな週の始まりは学芸会、職員旅行と続き・・・
おお!そのまま進展無しの日々を重ねてしまいそうな予感が。

1ミリでも進もう

今週のご報告です。

11月4日(日)・・・・学芸会当日、職員旅行。当然進展無し。

11月5日(月)・・・・・旅先での夜更かしに加え、眠りが浅かった私は気力体力ともに充電切れの状態で帰宅。それでも帰宅後すぐに台所下のスペースを片付けました。
色々なものが安定を欠いた状態で突っ込まれており、そこで使用されている収納用品を別のものと取り替え整理をしました。
それに伴い処分したものはわずかです。
プラスチック容器1つ、醤油差し1つ、小さいまな板、賞味期限切れマロニーちゃん。それでも気分はよし!午後は心置きなくぼんやりうとうと。

11月6日(火)・・・f:id:kyokoippoppo:20181109163816j:plain:w250:left・立ち止まってはダメだ!1ミリでも進もうと出勤時間まで手近なところを物色。
結果1ミリ前進。
(こんな短いリボンのはしきれ。
たこ糸にはクリップがついています。釣り遊びの残骸か?)
夜は紙類を分別処分。これもいったい何のために取っておいたの?と思われる代物ですね。これについては次のブログあたりで書こうかな?f:id:kyokoippoppo:20181109164756j:plain:w250:right



11月7日(水)・・・・メルカリに本を2冊出品。
直後に即購入されました。たいてい値引きの交渉などコメントが先行しますので、このように一気に売れるのは珍しいのです。

11月8日(木)出勤前の超わずかな時間にデニムなどの厚地の布を引っ張り出して、四角に切り始めました。
三枚切ってバタバタと出勤。f:id:kyokoippoppo:20181109173852j:plain:w200:right
私はこのように、あっちをいじり、こっちをいじり、思い付いたときに思い付いたことをやり始めるクセがあります。一ヶ所を徹底的にということができません。
「そんなの全然終わった気にならないじゃない。」
と友達に呆れられましたが、性分といのは変えられないし、変える気無しなのです。
部屋にものを広げ、結果3枚の四角い布をカットしバタバタ出勤する行動も首をかしげられそうですが、このように手をつけてしまえば、しかもやりっ放し状態であれば、否応無しに作業をやり続けられそうです。

 夕方メルカリで売れた本を郵便局から発送し、家に戻ってしばらくしたら、またまたメルカリからお知らせが。
以前出品していた本に購入希望のコメントが。そのまま買い取りの流れとなりました。
うれしい連鎖が続きます。
不用の本を捨てずに済み、少額なれどお金になり、我が家にストックされている包装紙も活躍するのです。
ああ、朝やりっ放した布はこの日はそれっきりとなりました。
大丈夫!明日があります。週末も近づいてきます。

11月9日(金)・・・・・朝は布切り、夕方はメルカリ発送。昨日のコピーのようです。
いや、昨日と違うのは、夜も布切りに励んだこと。
f:id:kyokoippoppo:20181110172859j:plain:w200:left
11月10日(土)・・・チョキチョキサタデイ。
そう、午後の休憩以外はほぼチョキチョキ!
休憩時間の読書は『廃墟ラブ』なかなか面白い。写真は四角く切られて救済された布と、私にさえ見捨てられ捨てられることになる布です。

廃墟ラブ 閉店屋五郎2

廃墟ラブ 閉店屋五郎2

してやったことしてやれなかったこと

してもらったからできる

「今、お菓子作りが楽しいさ🎵K(娘の子)も好きだから、一緒に作るんだ。」
と娘。
三歳児と一緒に作るなんて、さそがし面倒だろうと思う私は
「よくKと一緒に作る気になるね。」
とつぶやきました。
「でもこれって、お母さんもしてくれたから私もできるんだと思うよ。」
すると娘は、そんなうれしいことを言ってくれたのでした。
 思い返せば、確かにいくらかお菓子も作ったけれど決して上手に作ったわけでもなく、クッキーなどは娘が小学生の頃、友達にあげるとか、ホワイトデーだからとか言うのを仕方なしに手助けしたくらいの記憶しかありません。
娘が三歳児とこしらえるおやつは、とても可愛らしく上手で感心します。


そう、言うとお菓子に限ったことではなくスライムも作ったし・・・けっこう色々してもらった・・・・
と言ってくれるのです。

未熟でした

 林竹二の言葉と自分の子育てについて書いていこうと思い、綴り始めている私です。
林竹二の揺るぎない理念と確信を再認識すればするほど、それに近づこうとした自分の未熟さがハッキリくっきりしてきます。
 その事こそを書くのだと一旦は奮起したけれど、それを語ることは、我が子どもたちのことも語ることになるわけで、どこまで、とのように書いてよいのか迷っております。

 子どもを育てるに際して、子どもの健やかな成長と幸せ、そして自立の成就を願わない親はいるでしょうか?
それなのに、実際の子育てはそう簡単にはいきません。
「育て方」について、良いの悪いの、成功だの失敗だのと話題になりますが、自分を振り返ってもマニュアル通りに子育ては進まなかったし、良さの中に悪さがひそんでいたり、その逆もあるし、甘やかすったって程度があるし、突き放すったってタイミングもあるし・・・・未だに何も結論めいたことは言えないのです。

そう。
私は子どもがやりたいっていえば大抵叶えてやる親でした。勿論やれる範囲でですが。
スライム作るにしろ・・・おやつ作るにしろ・・・スキー場への送り迎えも・・・・。
庭にパークゴルフ場もどきも作ったし、(安いプラコップを穴掘って埋めただけたけど)
ミニ四駆だかのレース場もどきも作ったし(牛乳パックつなげて作っだけだけと)
焼き芋もしたし、ミョウバンの結晶作りもした。
我が家は友達も集まってワイワイといつもにぎやかでした。
子どもが長期休みの研究や作品に取り組むときは、一緒に野原の花をさがし、雲を観察し、紙粘土工作も楽しみました。
漢字が苦手なら漢字カルタだ!と買い求め、遊んだりもしました。

101漢字カルタ (漢字がたのしくなる本教具シリーズ)

101漢字カルタ (漢字がたのしくなる本教具シリーズ)

  • 作者: 宮下久夫,伊東信夫,篠崎五六,浅川満,金子都美絵
  • 出版社/メーカー: 太郎次郎社エディタス
  • 発売日: 2010/03/10
  • メディア: 単行本
  • 購入: 1人 クリック: 8回
  • この商品を含むブログ (1件) を見る


 でも、子どもが心から欲しかっただろうもの・・・・・
お父さんとお母さんが平和で仲良しの家庭」を与えてやることはできませんでした。

 そうありたいという努力や、試み、あがきを存分に行いましたが、林竹二に憧れたものと同様、やみくもに‘’あるべきもの‘’を頭で追い求めたに過ぎず、それは夫をますます窮屈にしてしまいましたし、今思い返しても息苦しい日々だったと感じます。

 足元の基盤や安心をしっかり作ってやれないままに、子どもの成績や点数にこだわらないという私の心意気や、公教育を手放しで信用しなかった姿勢は子どもたちに透けていて、それは不健康でいびつなものだったのかもしれないと今になって思うのです。
私が欲しいものは?
 林竹二と竹内敏晴の対談のあとがきを読んでいて、はっとした部分がありました。

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために

竹内氏が書いた部分です。

人が人間になるとはどういう価値を自分の中に受け取る、あるいは目覚めることかー人間が所有の確かさ、あるいは生活の安穏さというものではとどまらない、あるものを、めざす、それで人間になっていくという道筋を、あらためて林先生から受け取って、自分の中で、鍛えていきたいと思います。(原文の傍点部分をアンダーラインにして表示してあります)

所有の確かさや、生活の安穏さ

これは今の私が何より手に入れたいと願うものではありませんか!
私の本音は所詮そういうことなんたな。
竹内氏はそれを越えてさらに求めていく理念を語りましたが、そこにたどり着いていなければ、まずは金銭的な安心やそれに伴う生活の安定を求めるのはは仕方ないのかもしれません。

正直に明かせば、私たち夫婦は今は何とか暮らしているのです。

不安は子どもたちの現状にあります。

 長男は中卒で世の中に出ました。
20歳代でパニック障害を発症し、後にうつ病となり、ただ今治療途中。回復の道がもどかしいものであることをしみじみと味わっております。

 次男は高卒後、専門学校へあがりましたが中途退学。現在は川崎の叔父叔母の家で世話になりながら仕事ざんまい。借金を返済しつつ生活の立て直しを目指しております。

 長女も高校卒業後、学校へはあがらず、札幌で仕事につきましたが、長続きせず様々な仕事を転々。現在は結婚し一女をもうけましたが、その生活の行く手は雲の中。

 まずこうご報告してしまいましょう。
そして、子どもたちの卒業後から現在の間にある何とも様々なストーリーや彩り豊かな出来事については、いずれチロチロと何百個もののピースをはめて作るパズルのように語ってゆこうと考えております。

これからも続く道

 感傷的ながらも、上っ面なれども林竹二の理念に憧れた母親に育てられ、さらには家庭内のガタガタの影響を受けて育った、今は大人の我が子たち。
今後どうなってゆくのかなあ?

 そして私。結局私の母親が授けた学力や、教育のおかげで取得した免許を活用し、何のことはない、公立の小学校で支援員として働いている私自身も、どうなってゆきたいのか?

 かつて幼かった子どもたちにしてやったようなことは、もうてきないのです。
差し出せるものは、ほとんど無いのです。

 ですから、娘がおしゃべりの合間に伝えてくれた「してもらったから・・・・」という言葉はしみじみ私の胸に沁みたのです。

我が家のお片付け第5話

いつかやろう!今やろう

 いよいよ11月です。
学校中庭は落ち葉でいっぱい。

校長先生が作ったカボチャランタンは少しずつ萎びて、アゴがしゃくれたようになり、10月末のハロウィンの日をもってお役ご免となりました。

さて、我が家のお片付け状況の報告です。

10月28日(日)・・・・ブログアップ。
その後友達が来ておしゃべり、午後からは出かける用事がありで進展無し。
毎晩布団に入ると「明日は何をしよう。」と思い描くようになりました。
「明日は玄関横の収納庫だ!」と決めました。

10月29日(月)・・・・・収納スペースに収めていたカラーボックスを出しました。
ここは外壁に接しているので結露によるカビが心配なところです。隅に設置していた『水取りぞうさん』には満タンの水がたまっていました。
全く読まれていない本のセットは私が処分したくても夫は「取っておいて」と言うし、逆に息子が「捨ててもいいよ。」と言った‘’思い出の品‘’は箱から出したものの私が思いきれず。
そんなこんなで、カラーボックスを出したもののそれに、伴い処分したものはわずか。
でも、ここはまだまだ発掘しがいがありそうです。

10月30日(火)・・・・先週の選手交代(カフェカーテン風目隠しや鍋つかみをリニューアル)
に気を良くして、ミシン部屋の床用マットのカバーも付け替えることにしました。まとまった大きさの布があったのでそれを利用。
しかし、そのマット・・・元々は、過去に処分したスチールベッドの敷用マット部分です。別名「ダニの巣」と呼ばれそうですが、冷たく固い床には是非欲しいものなのです。

10月31日(水)・・・パーカーの袖口の繕い物、セーターの穴修理
いつかやろうとしていたことを、今やろうと思い立ち済ませました。

11月1日(木)・・・・メルカリで小物が売れました。f:id:kyokoippoppo:20181103134621j:plain:w100:right
発送用の箱は北海道銘菓『白い恋人』のパッケージ。こんな箱もないと困るのです。
風邪をひいたようです。鼻水ジュルジュル。

11月2日(金)・・・「林竹二』の方のブログアップ。「林竹二」と「お片付け」のサンドイッチ状態です。お片付けの方は進展無し。
夜の8時でもう眠い。明日は休日。目覚ましかけずに眠れるのは幸せです。大抵いつもの時間に目は覚めるのですがね。

今日切ろう!

11月3日(土)・・・髪を切りに行きました。隣の市までオホーツク海沿いの道をドライブ。
信号がほとんどない海岸線沿いの道をほぼノンストップで走りました。この時期には珍しい小春日和。道沿いの木々からは絶え間なく枯葉が舞い降り、生き物のように踊っていました。

イオン内の1000円カットですっきりです。

伸びたから切る切ったから伸ばす。その繰り返しの我がヘアです。そろそろ切りたかったのです。帰り道。畑で鳴き交わしている白鳥の写真をパチリ。越冬地へ向かう途中の白鳥たちです。

写真・なんだかなあ・・・という感じですがせっかくなので貼っておきます。
お片づけは本日も進展無し。
それでも、頭がさっぱりし、やりたかったことを片付けた一日と言えましょう。

 明日は学芸会当日で、そのまま職員旅行です。
午後は骨休めです。風邪も回復しておりませんし、ティッシュケース持ち歩いてのおでかけにはしたくありませんので。

林竹二は何を伝えたかったのか

匍い、立ち、歩んだ先に・・・

「匍えば立て、立てば歩めの親心」
という句がある。親心をよんだとのとしては、これでいいのだろうが、嬰児の成長の事実の中には単なる親心よりもはるかに底の深い真実かある。まだ、匍うことのできない子も、抱いて二本の脚で立たせると人に助けられていても、立つ姿勢になったことにかぎりないよろこびをあらわす。そのうち片脚を踏み出すような仕草さえする。嬰児自身のうちに、子ども自身のうちに、人間になるために学ぶ階程を、一足ずつのぼろうとつとめるつよい衝動がある。それが満足されたときに内面から湧いてくる喜びは深い。この内的衝動と内部から湧くよろこびがなければ、匍えば立ち、立てば歩むという人間になるための階程を一段ずつ上ってゆく学習は、どんなに外から強いられても成功の望みはないだろう。
その学校教育の不幸の根は深い。学校教育は子どもの存在の中に深く根ざしている学ぶことへの希求にこたえるものとして、その教育を組み立てていないのである。私は私の授業経験を通して、学校教育にはもっと別の可能性があるのではないかと考えている。
 子供たちはまだ人生に根をおろしていない。この子供たちに、もっと深く根をおろさせ、根を広げさせる努力が、教育の根本なのに、それをしないで、やたらに枝葉をしげらせる教育になってしまった。
これが幼い子供が自らの命を絶つ事件の頻発に無関係ではないのだろうか。

『対談 教えることと学ぶこと』林竹二・灰谷健次郎小学館

教えることと学ぶこと―対談 (1979年)

教えることと学ぶこと―対談 (1979年)

育ちゆく嬰児や幼児の、匍い 立ち、歩く営みは「人が‘’人間‘’として育つための学習」であり、そこには根元的な喜びが伴うと林氏は述べています。
それは、きっと多くの方がイメージできることでしょう。共感もできることでしょう。

 名前を呼ばれ「はーい」と手を挙げれば親は喜び、子どももそれに反応し、幾度も「はーい」をやって見せたりする。
親の言葉を真似て覚え、やりとりができるようになってゆく、そこにも幼児の喜びが確かにあることでしょう。
これも、子どもが‘’人間‘’として育つための学習です。

 しかし、学校にあがり教科としての学習が進む頃には,多くの子どもにとって「学習」は喜びと結びつかなくなってしまいます。
苦行のようになってしまう子さえいることでょう。
私自身、教科としての学習から‘’子どもの喜び‘’をイメージすることは難しい。
ですから、子どもが匍い、立ち、歩むという「学習」と、学校における「学習」は別物と考えてしまいがちです。

 しかし林竹二の言葉では、二つはつながっているものであり、同じ「学習」ととらえていることがわかります。
また、そうでなければならないと考えておられることもわかります。

なのにここが分断されているのは何故なのでしょう。
学校が介入し、指導要領にのっとって教えることでこのような現象が起こるのでしようか?
教科の学習は子どもの身体的な成長のように、生理的な喜びに結びつかないのは当たり前で仕方ないことのでしょうか?
そもそも子どもが、学ぶことに飢えていないのに食わせようとするからでしょうか?


 林竹二はふらりと教室に入り、この分断を解消しました、
授業の中で、子どもたちは見事に集中し、ひとりひとりが問題と格闘しました。
これは普段の成績や、学力とは関係なく皆がこのような学習をしたのです。
その表情は日常的な自分を乗り越えようとして真剣であり、上り詰めたところでは喜びにあふれ、浄化されたような美しい表情が現れました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 林竹二が提示した教材は、一般的な、教科書にあるようなものではありません。
林真自身が研究してきた手応えのあるテーマです。
先生たちが教えなければならないと縛られている内容とは違うものです。
しかし、その違いだけで、このような出来事が出現するわけではないでしょう。

 授業は、数枚の写真が提示されて進められもしましたが、取り立てて珍しいものを見せたわけではありません。

児童や生徒とのやり取りに特別なテクニックが使われたわけでもないのです。
ゲーム性を取り入れて、子どもを乗せようとしたわけでもない。(むしろそのようなものは排除されるべきものなのです。)

林氏は、徹底的に子どもを信じて添い、ドマドマと戸惑うような場面に周りを巻き込み、全ての子どもを問いのただ中に立たせました。

それで前述のような授業が成り立ったことを説明しようとすれば、林氏の差し出したものに、子どもたちが応えたということに尽きるのではないでしょうか?
子どもが学習に対して開き、もともと備えていた学びたい欲求を開かせた。
そのような能力をどの子も持っているという事実を林竹二は見せたのです。
林氏が授業を公開し見せたのは、自分の力量や自分の技を見せたかったからではありません。
ここにある子どもの姿と可能性を、何としても伝えたかったのです。

枝葉と根っこ

 我が家に授かった三人の子どもたちもきっと’’そういう存在’’だったことでしょう。
その子どもたちを、私は一生懸命育てました。
健やかに育ちますように、幸せになりますようにと。

子供たちはまだ人生に根をおろしていない。この子供たちに、もっと深く根をおろさせ、根を広げさせる努力が、教育の根本なのに、それをしないで、やたらに枝葉をしげらせる教育になってしまった。

 枝葉をしげらせるというのは、暗記させ、テストで吐きださせ、ありあわせの知識で体よく答え、そのやりとりで子どもを評価する有り様といえましょう。
林竹二はそれを否定しました。

 前回のブログて、私は子どもの目に見える点数や成績にこだわらないことで、林竹二の理念に近づこうとしたことを書きました。
目にみえる枝葉をむやみにしげらそうとはしなかったのです。

しかし!
それだけではその理念に近づいたとはいえないのです。
根を張らすことも、共にしていかなければ。
それをしなければ、枝葉もしげらず根も伸びずということになる。
で?私は何をしたのでしようか?そのように自分に問いかけますと、何とも言葉に詰まるのです。
言葉につまったところで今回はおしまい。
ああ、自分を語らずじまいのブログになってしまいました。