興味の流れのままに③

始めに

 まず始めにお断り。
前回の記事にリライト部分があります。
伝蔵が、その死に際して、仲間「森蔵」の生存について語ったという箇所です。
伝蔵がその生存について語ったのは、
あくまで、
「仲間の某(なにがし)」
ということでした。

その言葉に対して、周りが、
おそらく、これは森蔵のことではないか?
と推測したというのが正しいことでした。
リライト前に読んで下さった方のために、ここ訂正せてもらいます。

また、今回の記事も『伝蔵と森蔵』を参考にしていること、カット(挿し絵)は、『王道の狗』のページより借用していることも、予めおことわりしておきましょう。

何回かの連載になりそうです。
過去記事を並べて貼ることを避けるため、タイトルと同じ「興味の流れのままに」というカテゴリを設けました。
話のつながりが分かりづらい方は、カテゴリをポチっとして読んで下さいませ。

雲をつかむような・・・・

 秩父事件の幹部で、死刑囚、逃亡者であった伝蔵が、その死に際して「仲間なにがし」の存在を言い残したのが1918年のこと。
f:id:kyokoippoppo:20200315190019j:plain:w330:rightそして、『伝蔵と森蔵』の著者である小池喜孝氏が、森蔵であろうかと思われるの足取りの調査を始めたのは1972年の春のことです。
伝蔵の死から54年が経過しており、某本人の生存の可能性は無くなっていました。

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それでも小池氏は、某が「森蔵」である想定のもとに、「森蔵探し」を始めたのでした。

森蔵が本名を名乗って暮らしていたとは思われません。
探す相手の名前が分からないという現実・・・・まさしく”雲をつかむような状態”でした。

小池氏は、ゼロ地点から彼の歴史をたどりはじめます。
写真は、調べあげた緻密な年表の最後の部分です。

1888年、3人の仲間が札幌までやって来て解散したところで、彼の消息はストップ。
次は1918年の伝蔵の遺言の部分に飛んでおります。

丁寧に生育歴をたどるも、行き着く先はやはりここなのでした。

本州に残した息子

f:id:kyokoippoppo:20200315101815j:plain:w200:right そこで小池氏は、本州に残してきたという「寅雄」さんを追いました。
ご覧下さい。


 寅雄さんは、二歳のときに父親(森蔵)と生き別れとなっています。
その後結婚しましたが、小池氏の調査時には、寅雄さんも奥さんもすてに鬼籍に入っておられました。
また、六人のお子さんがいたこともわかりましたが、何と!すへてのお子さんが父母に先立ち亡くなったとのこと。
寅雄さんの家族縁は、淋しいものだったなと感じます。
そんな訳で、本州での森蔵の血統は途絶えておりました。

マスコミを頼って

 次なる策に窮した小池氏は、マスコミに協力してもらうことにしました。
北海道新聞に記事を出したのです。

〈釧路潜伏__秩父事件の某
子孫は名乗り出て・・・・井上伝蔵の遺言により過去帳調べ壁に小池喜孝氏が指摘、飯塚森蔵の可能性も〉

この見出しに続く記事を掲載してもらいました。

そもそも小池氏は、長らくつきまとう「火付け」「強盗」「暴徒」という秩父事件の印象を正し、顕彰したいという思いの下、このような活動を始めておりますので、新聞紙上でもこの旨を添えた上で心当たりのある人は胸を張って名乗り出てもらうよう発信をしたのでした。

父は何者??

 すると、函館に住む会津という人から連絡がはいりました。
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自分の父親と経歴が似ていると、名乗り出たのです。
その広氏にしても、父親とは二歳で死に別れとなっており、記憶に残す父親像はありません。
父の名は後藤平吉

父親の経歴は、母の弟でもある養父会津勇太郎から聞いたものでした。
●父親は板垣退助の子分であった。
政治犯として追われて北海道に逃げてきた。
●本州では学校の校長先生だった。
●本州にひとり息子を残してきた。

かなり有力な情報ですが、
位牌に残された歿年は、「大正六年十一月十九日」となっており、伝蔵の死より前に亡くなっていたことになります。
(伝蔵の死は1918年・後藤平吉の死が前年の1917年。)
「釧路に生存する・・・」という伝蔵の遺言とここだけがくい違い、小池氏は半信半疑な気持ちでいたのでした。
もうひとつ・・もし、後藤平吉が森蔵だとすれば、何かこの事件関して言い残したはずだ。
全く何も語らず、残さず森蔵がこの世を去ったとは信じがたい小池氏なのでした。
会津氏の父親は森蔵なのか?
確信を得るにはまだ、不十分でした。

小池氏は、広氏の縁者を尋ねてゆくことにします。

それにしてもこの家系図、奇妙ですね。
後藤平吉は戸籍を持たなかったため、タマと平吉の子どもたちは、タマの父親島田長吉の戸籍に入りました。
しかし、子どもたちは次々と養子に出されています。
ハンジと長政は、アイヌの家庭にもらわれ育てられています。

島田タマの弟は、なんらかの事情から会津家を継ぐことになり、会津姓を名乗っております。
二歳で父を失った広はそこにもらわれていきました。

続きを急ぎたいところですが、今日はここまで。

追記
個人的な興味のままに書き始めているこの連載ですが、読者の方から今までと変わらない励ましをいただき、また新しい方の訪問もあり喜ぶと共に驚いております。ありがとうございます。

家系図に記した平吉(森蔵)のお孫さんが営んでいたというお寿司屋さん。今だ健在です。
現在の経営者がどなたかまでは調べられませんでしたが・・。


中鮨-Yahoo!ロコ

ジャンル: 和食, 握り寿司
評価: クチコミ1件
予算: ~3000円~5000円
TEL: 0157-23-2655
営業時間: 月~日 12:00~24:00
定休日: 不定
住所: 北海道北見市幸町5-5-1
アクセス: 北見駅[出口]から徒歩約9分