興味の流れのままに②

逃げた人の末路

 連載になるであろうこの記事は、秩父事件をめぐるあれこれですので、「秩父事件」に触れないわけにはいきませんが、ここにその経緯やら、歴史的意味などを細かく書こうとは思っておりません。
秩父事件の説明も、「コトバンク」からお借りして済ませてしまいましょう。↓

1884年(明治17),埼玉県秩父郡を中心に起こった農民蜂起。自由民権期の激化事件の頂点をなし,当時は〈秩父暴動〉〈秩父騒動〉といわれた。明治政府はこれを少数の壮士,博徒,脱監人が多数の善良な農民を教唆して起こした事件と解釈し,報道機関もその見解に従い,当時真相はわからなかった。 横浜開港以来,秩父といわず全国の平均的養蚕農家は国際商品となった生糸生産によって生活を補完したため,世界経済の動向に従って左右された。

コトバンク、世界大百科事典 第2版の解説より

ブログ記事を書くにあたり、事前に作った要点マップのこの部分・・・「井上伝蔵」のことを書きます。

井上伝蔵のことは、ネット検索すればいくらでも情報がありますので、深くお知りになりたい方はそちらで補って下さいね。
私は主に『伝蔵と森蔵』を参考にしてこれを、書いております。
またカット(挿絵)は、『王道の狗』のページより選び、貼り付けましたことを先にお伝えしておきましょう。

さて、この事件に関わる処罰者は4500名を越えたと伝えられております。

秩父事件の幹部たちに限って調べてみますと大雑把に分けて、

刑が執行された人(死刑・懲役刑)

憲法発布の恩赦によって解放された人

逃げて身を隠した人

の三通りとなります。

会計長であった、井上伝蔵は逃げた人でした。
欠席裁判で死刑が確定したものの、当の本人は行方をくらましていたのです。
事件後二年間を知人の土蔵に身を隠し、その後北海道に渡り、名前を変え別人となって生きました。
「伊藤房次郎」こと、井上伝蔵は、二度目の結婚をし、子どもももうけましたが、妻子の入籍を拒み続けました。
自分の素性が明らかになったとき、その影響が家族に及ぶことを怖れたからでしょう。

重刑の判決を受けながらも恩赦で出獄し、英雄として迎え入れられたかつての仲間の存在は耳に入ったことでしょうが、伝蔵は逃亡犯でもあり、恩赦によって解放された幹部たちと同じ立場で在ることは、もはやできませんでした。

家族の写真

 また、秩父事件は世間一般には、「暴動」であるとして伝えられ定着もしていたようです。
‘’自分の素性‘’という大きな秘密を、家族とありながらも一人で抱え、暮らしを営んでいたのです。
伝蔵は、その生活の中で、写真の1枚も撮らせませんでした。

そうやって、彼は、とうとう死の間際までやってきました。

自分の死期をさとると、伝蔵は長男を枕元に呼び、自分の素性を明かしたのです。


そして、家族揃って写真を撮りました。
もう身を起こすこともできない伝蔵がいて、
夫そして父親の素性を知ったばかりの妻と長男がいます。
(この写真はネットの中で容易に目にすることのできるものです。
しかしあえて、『伝蔵と森蔵』の本の1ページを写真に撮りここに貼り付けました。)





渡道以来一枚の写真も撮らせなかった房次郎が、家族と記念写真を撮ったのは、死の十時間前だったとセツさんはいう。写真ぎらいだった父といっしょに写真をとることで、セツさんの心ははずんでいたという。子どもたちの顔は、自然に楽しそうに笑っている。
 だが、ミキと洋はすでに房次郎から遺言を話され、ことの重大さを知っていた。父と共に写真に収まることで娘たちがはしゃぐのを見て、ミキの心は痛み、その顔からは血の気が引いたであろう。

       『伝蔵と森蔵』より






 この写真を残すという行為で、私が思い起こしたのは『八日目の蝉』です。
自分の素性が明らかになり、誘拐してそのまま我が子として育てた”娘”との別れが近いことを知った主人公の「希和子」は、写真館を訪れ、写真を撮りました。
それまで、自分の姿を刻印する写真を忌避し続けた「希和子」でしたが、子どもと引き離されることを観念した彼女は、家族として一緒に暮らした証を、何としても形として残したくなったのです。

国事犯として・・・

 家族写真を撮った翌朝、伝蔵は亡くなりました。(1918年・6月23日)

妻ミキは、「死んだ死刑囚を、警察が連れていくことはあるまい」と考え、独断で入籍の手続きをとった。そのため伝蔵の死亡届は一日延ばされて、六月二四日になった。死亡届け前の入籍手続きで、五人の子の籍は井上家に入った。

     『伝蔵と森蔵』より
 

 伝蔵はその死に際して周到な準備をしておりました。
自ら危篤電報を打ち、数社の新聞記者を集めたのです。
(『伝蔵と森蔵』による情報です。どのタイミングで?どのように?とは思いますが・・)
通夜の席には『東京朝日』『釧路新聞』『北見新聞』の記者が訪れ、そこで伝蔵の遺言が長男洋によって明かされました。


伝蔵が伝えたかったことは、
秩父事件は「火付け、強盗」の類では断じてない。
ということ。
伝蔵の生前、1910年(死の8年前)
自由党は正史として、板垣退助の監修で『自由党史』を刊行しました。
これは、自由党の主張をよりどころとして決起に至った秩父事件関係者にとっては、官側のつけた「火付け、強盗」の偽レッテルを剥がす絶好の機会として大いに期待するところがあったようです。

しかし、

『党史』を手にした伝蔵の驚きは、やがて怒りに変わったであろう。『党史』は秩父事件を、「暴挙」と断じ、「不平の農民、博徒、猟夫の類」が、「金品を掠奪分配し」た「実に一種恐るべき社会主義的の性質を帯べるを見る」と記していた。
 官が偽造した、「暴挙」史観に、『自由党史』までが同調したのである。

これにより伝蔵は、事件の真相を知る者として、いずれ自分が真相を明らかにする、という決意を強くしたことでしょう。
累が及ぶであろう家族のことを考え、その機会を自分の死の時に設定したと考えられます。


 伝蔵は、葬儀を執り行った聖徳寺住職によって院号を送られ、過去帳には次のように記載されました。
晴れて「火付け、強盗」の汚名を拭ってもらい、「国事犯」として葬られたのでした。

また、伝蔵はその死に際して、かつての仲間であった某(なにがし)が、生きて暮らしていることを言い残しました。
(この時点で、その人物が森蔵を指すのかは不明であった。後の調査により、森蔵を指していたことが濃厚となる。
また調査が進むにつれ、この時には、森蔵は死亡していたことが判明した。伝蔵は森蔵の死を知らずにいたわけだ。奇しくも、この時、残された妻子は伝蔵の住む町内・・・野付牛で暮らしていた。)

釧路に潜む某

 伝蔵の遺言、及び志を受けて『釧路新聞』は「秩父颪」(ちちぶおろし
という連載を設けました。
その最終回の末尾は、伝蔵の遺言を引いて、次のようにしめくくられております。

さては彼が同士の一人にて、現に釧路に潜む某が数奇を極めし一代記は、頗る興味多きものなれど、現に生存する多くの人々に累を及ぼすを以て、本稿は暫時此所に筆を擱く」

フムフムすごいな。
今なら、絶対に暴かれ恰好のネタにされてしまうことろ。
当時の新聞は、筆を擱いた伝蔵の意志を尊重したのです。


件の森蔵探しを始めようと、『伝蔵と森蔵』の著者である小池喜孝が動き出したのは、1972年のこと。

この度ブログ記事にした内容は、『伝蔵と森蔵』のプロローグとなっております。
本書19ページは「森蔵探しのはじまり」と題された見出しで始まっており、困難を極めた個人史発掘の苦労と喜びが綴られているのです。





もし、お時間のある方はこちらご覧下さい。
落ち着いたトーンのナレーションで、わかりやすく「井上伝蔵」についてが語られております。
www.youtube.com


kyokoippoppo.hatenablog.com
kyokoippoppo.hatenablog.com