興味の流れのままに④

f:id:kyokoippoppo:20200317080204j:plain:w400:left朝はまだ、氷点下の気温になることもある日々です。
おーー寒む寒む。
 でも、鳥のさえずりは「春だよ春だよ」と賑やかです。
朝5時には空が明るみ始め、夕方は明るい西日が景色を照らします。
こちらにも春は近づいておりますよ。

ざっとこれまでを・・・

 秩父事件の会計長、井上伝蔵・・・・・北海道まで逃亡し、名前を変えて生きた。
その死に際して素性を明かし、かつての仲間の生存も言い残した。1918年

「その仲間はおそらく飯塚森蔵であろう。」
その確信を確かなものにするため、調査を始めた小池喜孝氏。
子孫を探しては尋ね、点を線にするような地道な活動を始めた。1974年。

森蔵の子孫かもしれないと名乗り出た、会津広氏。
彼の父親は、森蔵なのか?

前回は、ここまでを書いてきました。

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 今回は、その先を書いてゆきます。
太字で「その父は森蔵なのか???」と含みを持たせたものの、あっさりと会津広の父が森蔵であったことをお伝えした上で進めてゆきます。
少しずつエリアが広がってゆきます。
うまくまとめられるかな?

また、今回の記事も『伝蔵と森蔵』を参考にしていること、カット(挿し絵)は、『王道の狗』のページより借用していることも、予めおことわりしておきましょう。

タイトルと同じ「興味の流れのままに」というカテゴリを設けてあります。
話のつながりが分かりづらい方は、カテゴリをポチっとして読んで下さいませ。

森蔵の子どもたち

f:id:kyokoippoppo:20200315145308j:plain:w330:left この家系図・・。
本を読みながら、
「え~???この人はいったい誰だっけ??誰とどうつながる人だったっけ??」
と何度も見返した家系図を、改めて書き写しました。
こうでもしないと頭に入ってこないのです。
で、・・・・、家系図を、書き写してまで私がここに貼った理由は、後藤平吉こと飯塚森蔵の妻が、我が町「湧別」で丸玉旅館を営んでいた島田長吉の娘だからです。
(父長吉の部分は家系図に書いてありませんが・・。)

森蔵は、ここ湧別を訪れ、丸玉旅館の娘タマと結ばれたのです。
しかし、彼は戸籍を持たぬ身。
生まれた子どもたちは、島田長吉の戸籍に入りました。



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 ところが家系図を見てお分かりのように、島田姓を残していたのは、長男健次のみ。 
長女は嫁いだため姓が変わったと思われますが、
他の子どもたちは他家へ養子に出されています。
二人の子どもはウタリ(アイヌ家族)のもとへ。
二歳で父親と死に別れたという広は、タマの弟である叔父(会津家を継いだため、会津姓)のところへ養子に出されました。
小池氏が調査した当時、森蔵の子で生存していたのは広一人きりでした。
ここに貼ったカット、旅館の名は島田屋となっていますね。でも屋号は丸玉です。
広の血縁をさらに追ってゆくことで、森蔵の足取りが徐々に分かってきました。
森蔵は二人の子どもをアイヌの家族のもとへと養子に出し、自分たち夫婦もコタンの片隅の粗末な小屋で暮らしていたのでした。
そして最後は山仕事の最中に足を滑られ、その際舌を噛みきり、苦しみのうちにその一生を終えたのだそうです。
伝蔵が事件に関することを何も残さず亡くなった理由はこれだったか??
と納得のいった小池氏ではありましたが、同時に秩父事件の真実が、伝蔵の胸に秘められたまま葬り去られたことを知り、大いに落胆もしたのでした。

※(森蔵の最期に関しては、1893年愛媛県で、の説もあり。”語る舌”を噛み切って亡くなったという白糠での死亡説は、ちょっと象徴的ですね。)

アイヌの父と呼ばれた男

f:id:kyokoippoppo:20200318164519j:plain:w330:left 湧別にはアイヌの父とも呼ばれる「徳弘正輝」氏が、開拓の先達として暮らしておりました。(写真は我が町の社会科副読本です。)
上湧別町に、開拓と防衛を担う「屯田兵」が入植を始める1898年より15年も早くこの地に入り、中湧別のナオザネと呼ばれる場所に牧場を持ったのでした。
ナオザネコタンのエロッタ(和名大坪利作)の娘ホウと結ばれ、二人の間には11人の子どもが生まれました。



 小池氏は、森蔵と湧別との縁を、徳弘正輝にまで広げてとらえました。
つまり、湧別の地を踏んだ森蔵は徳弘の存在を必ずや知ったことだろう。
そのアイヌとの交流を知り、自分の生き方にも反映させたのではないか?と考えたのです。

森蔵がコタンで暮らした理由を、はじめは潜伏に恰好の地を選んだ程度にしか、考えていなかった。そんなとき想い浮かんだのが、徳弘正輝だった。自由民権家で、コタンで生涯を送った点、正輝と森蔵は酷似した人生コースを送っていた。

民権運動を発展させ、アイヌ連帯の生涯を送った徳弘正輝の軌跡は、森蔵の生き方を推測させた。二人の子どもをアイヌ人の養子にしてコタンに暮らし、和人との交際をいっさい絶った森蔵の場合、アイヌ人との連帯は、正輝よりも深いものがあったと思われた。

小池氏はそのように書き、森蔵との接点は定かでないながらも、「徳弘正輝」について、紙面を割いて記述しています。

小池氏の視点は、この辺りから、アイヌ民族に対する和人の差別や、搾取に関することに向かってゆきます。

メノコ妻

f:id:kyokoippoppo:20200318063659j:plain:w200:left  その中で、自らの差別意識に気づく下りがあります。
小池氏は当初、徳弘正輝がアイヌの女性を妻にして暮らしたことを、優位の者が、下位の者を差別せずに受け入れたというような受けとめ方をしており、自分に潜む差別意識に無自覚でした。
後から送り込まれた正妻とは離婚し、ホウとの暮らしを遂げた徳弘を、安直に立派だと思った小池氏でした。
しかし、取材をする中で聞いた
「ウシンデさん(ホウ)はそれはそれは綺麗な人だった。賢くてよくできた人だった。だからといって妾を作るのは良くないことだけどね。」
という、徳弘夫婦をよく知るアイヌ、シャヌレさんの言葉にハッとします。
徳弘は、メノコを妻にしてやったのではない。
ホウは、妻にしたいと思わせる美貌を持っていたのでした。
それにしても・・・・
土佐(徳弘の郷土)から、顔も知らぬ徳弘の元へやってきたという夏喜という女性のことを思うと私はせつない気持ちになります。夏喜との間に子までもうけながらも、徳弘のホウへ寄せる想いは変わらず。結局離婚し、彼女は土佐へ戻るのです。

土佐から、寒くて遠くて、知る人もいない北海道の辺地へ来てのこの顛末。
可哀想過ぎるだろ!
夏喜に対する憐憫の思いを生じさせた気配もなく、記述を進めた小池氏に対してもちょっと残念な気持ちを抱きました。
 アイヌ差別もさることながら、この時代の女性の扱いの酷さにも意識をむけるべきだと感じました。

‘’アイヌの父‘’などと呼ばれる徳弘氏ですが、この件に関しては、‘’美しいホウが好きだった一人の男‘’と捉えた方が正しいのではないかしら?


 湧別図書館で展示されていた「ふるさとの絵葉書」を写真に収めました。
時代が今回記事の内容とマッチするのかはわかりません。
しかし、まだ電線もなく、馬で行き来しておりますのでそう遠くないものと思われます。
(軍馬の売り買いをしておりますので、上湧別のあたり、屯田兵入植のころですね。)
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 この展示に対して、私が思わず歓声を挙げ、司書さんと話が弾み、その流れで紹介してもらったのが『伝蔵と森蔵』です。
偶然の出会いと興味が連動して、この連載となっている次第。
kyokoippoppo.hatenablog.com