目に止まった新聞記事
北海道新聞日曜版に、「日曜navi」という
紙面があります。
道内各地の景色と、それに因む歴史が紹介されています。
ある日の記事がこちらです。
根室漁港の景色。
添えられた文章のここまでを読んでストップ!
このページを引き抜き保存いたしました。
次に行ったことは??・・・・予想がつきますよね。
そう図書館です。
『おろしや国酔夢譚』を借りてきました。
- 作者:井上 靖
- 発売日: 2014/10/10
- メディア: 文庫
新聞記事の続きを読むことを封印して、井上靖氏によるこの作品に没入いたしました。
10代のころ、井上氏の『しろばんば』を好んで読みましたが、他の作品は読んでおりませんでした。
『おろしや・・ナンチャラ』(何と読むのやら?という状態)
作品タイトルは度々目にしたものの、「好みでないだろう」、「読みづらそうだわ」と勝手に思い込み、遠ざけていました。
しかし、その日の新聞記事が、そんな私の背中を押したのです。
それというのも、北方の島や国への興味が、私の中で未だに残っているからでしょう。
kyokoippoppo.hatenablog.com
毎晩毎晩その日の仕事や、すべきことを終えて布団に足を突っ込む瞬間の幸せよ!
その時開く本が楽しいものなら幸せは倍増するのです。
『おろしや国酔夢譚』は、1782年伊勢白子の浦を出航した船乗りたちの運命を描いたものです。
彼らの船神昌丸は、暴風により舵を失い漂流、はるか北の島アムチトカ島へ流れ着きます。
未知の異国ロシアで過ごすこと10年。そこでの暮らしを経て帰国するまでの物語です。
想像をはるかに越える寒さ、
言葉も通じない異国・・・・そこで生きていく知恵を身につけ、言葉を覚え、帰国を訴え続けた船頭大黒屋光太夫。
仲間をひとりふたりと失い、希望と絶望の波を越えながら、光太夫はロシアの西端の都市ペテルブルグにまで行き、当時の女帝エカチェリーナに謁見し、帰国の手助けをお願いします。
その望みはとうとう叶えられます。
が、その時既に12人の仲間は他界しておりました。(「幾八」は漂着前に死亡)
残る5人のうち、ひとりは凍傷で片足を失っており、不自由な身体となったことをきっかけに土地の信仰を受け入れておりました。
洗礼を受け、ロシア人となっていたのです。
その庄蔵の他にもう一人、新蔵も洗礼を受けてロシアの民となっていました。
新蔵も病がきっかけではありましたが、二人に限らず漂流民たちは、長きに渡り彼の地で暮らすうち、その暮らしが身体に染み込み、馴染みつつあったのです。
そんな頃にようやく帰国実現の扉が開きました。
庄蔵と新蔵は、もはやロシア人であるとして叶いませんでした。
そうでなくとも、キリシタンが禁じられている日本に彼らが暮らせる場所は無かったのです。
日本のうちかや?
さまざまな準備の後、「エカチェリーナ号」がロシア東端のオホーツクを出港したのが1792年9月13日。
北海道根室の港に至ったのは10月9日のことでした。
井上氏はその地を見た「小市」に
「俺は日本へ来たというより、アムチトカ島へ連れ戻されたような気がしてならぬ。ここも日本かや。日本のうちかや」
と語らせています。
道新日曜naviで私が目に留めた部分です。
伊勢出身の彼らの目には、根室の風景が、まるで流れ着いたロシアのアムチトカ島と重なって感じられたのでしょう。
自分の知る日本のものとは、まるで違って見えたのでしょう。
その小市は、ふるさとの土を踏むことなく根室滞在中、壊血病により死亡しました。
とうとう残ったのは光太夫と磯吉の二人きりとなりました。
鎖国政策を取っていた日本にあって、日本人引き渡しさえも、様々な手続きが必要でした。
(鎖国政策は1639年~1854年まで)
ロシアが望んだ国交、交易の成果も乏しく、長崎への入港許可証を持ち帰るに留まりました。
箱館(本文のままに記述)での手続きを経て、二人はようやく日本側に引き渡されました。
役人の後をつき従う光太夫と磯吉の足は靴を履いており、その耳には役人の草履が地面をたたく音が入ってくる。
磯吉が呻くような声を出しました。
後に磯吉はこのときのことを次のように語ります。
虫の声が聞え、ひたひた地面を叩く草履の音が聞える。そうした中を自分は歩いている。何とも言えず妙な、懐かしい、落ち着いた気持ちだった。漂流前までは自分は確かにこういう国で生きていたのだと思った。そしたらふいに根室で死んだ小市の顔が浮かんで来た。
そして、そのあとしゃしゃり出るように次々と仲間の顔が思い浮かび、磯吉は堪らなくなって泣けてくるのでした。
光太夫にしても、この日の夜は終生忘れられない思いを持ちました。
しかしそれは、磯吉のものとは異なるものでした。
この夜道の暗さも、この星の輝きも、この夜空の色も、この蛙や虫の鳴き声も、もはや自分のものではない。確かに曾ては自分のものであったが、今はもう自分のものではない。前を歩いて行く四人の役人が時折交わしている短い言葉さえも、確かに懐かしい母国の言葉ではあったが、それさえもう自分のものではない。自分は自分を理解しないものにいま囲まれている。そんな気持ちだった。自分はこの国で生きるためには決して見てはならないものを見て来てしまったのである。アンガラ川を、ネワ川を、アムチトカ島の氷雪を、オホーツクの吹雪を、キリル・ラックスマンを、その書斎を、教会を、教会の鐘を、見晴るかす原始林を、あの豪華な王宮を、宝石で飾られた美しく気高い女帝を、─ なべて決して見てはならぬものを見て来てしまったのである。光太夫は絶え入りそうな孤独な思いを持って四人の役人のあとに従い、どこへともなく歩いて行ったのであった。
印象に残る描写です。
ロシアで暮らした時間が、どうしようもなく彼らを変えてしまっていたのです。
そしてここを読む私までもが、列記されるロシアの知名や風物に思いを馳せるのです。
この場面に至るまでに読んできたページの中で語られたロシアでの日々、人との交流が生々しく甦るのです。
他国を見て知って戻ってきた日本人は、もう漂流前の船乗りでは無くなっていたのでした。
学級図書にあった『これは真実か!?日本歴史の謎100物語』にも、大黒屋光太夫は紹介されておりました。
ロシアの服を着た、光太夫と磯吉の絵が載っています。
日本人は彼らの姿を見て、大いに異質なものを感じとったことでしょう。
桂川甫周の『漂民御覧之記』には、
「更にこの国の人とは見えず、紅毛人の形に髣髴(ほうふつ)たり。」と記されているそうです。
そういう存在として舞い戻った二人にとっても日本は、よそよそしく遠い存在に映り、元の印象に戻ることはなかったのかもしれません。
もちろんこれは、史実を元にしながらも井上靖氏が描いた物語です。
彼らのその後については諸説あるようですが、
江戸にあった薬草植え付け場で暮らし、そこで没したということだけは確かなようです。
生活の保証こそされたものの、半幽閉状態で暮らしたと『おろしや国酔夢譚』には記されています。
- 作者:昭, 吉村
- 発売日: 2005/05/28
- メディア: 文庫
- 作者:昭, 吉村
- 発売日: 2005/05/28
- メディア: 文庫