さ・と・し・わ・か・る・か

点字

 前回の記事の続編となる今記事です。
借りてきた本を、我慢できずに読み出したところ二日で読み終わってしまいました。
同じ名字であるお母様も登場いたしますので、福島智さんを智氏。お母様を令子氏と記述いたします。
(このような記事を書くときの敬称・・難しい!)

『さとしわかるか』表紙の上部にはタイトルが点字で打たれております。

目も見えず、耳も聞こえない「盲ろう者」でありながら昨秋、東大教授となった福島智氏。9歳で失明してから、18歳で耳が聞こえなくなり、「指点字」という独自の会話法を編み出すまでの苦難の日々を、母親である令子さんが初めて綴った感動の子育て、闘病記。


目をつぶりそれをそっとなぞってみます。
まあ!!
さっぱりわかりません。
目の不自由な方はこれを瞬時に判別できるのか??
見える私は点を見て理解しようとしますが、見えない方は触った指の感触でこれを判別します。

智少年もすかさず声をあげました。
「そんなん無理や。こんな小さい点々が読めるわけないやろ。・・・・・・」

腹が立つのも無理はない。点字の一つずつは、カイコの卵ほどしかない。

一字ずつは、ほんのわずかに異なるだけである。

しかし、視力の回復が見込めないことが確実となり、盲学校へ編入することが決まった智少年は、点字を解読できるようにならなければなりません。

「これは何という字かなあ。おいおい八っつあんや。おまはんはどないに思うかな」。
落語の好きな智は、その世界の住人と会話をしているらしい。
「大家はん。わいにはどうも『そ』に見えますけどな」
「はいな。おまはんもそないに思いますか。」・・・・

引用は『さとしわかるか』より。

智少年が持つこのようなユーモア。
このユーモア精神は、その後の過酷な人生においても大きな助けとなりました。
点字を覚え、盲学校に通い、残された聴覚をフルに生かし楽しんだ福島氏でしたが・・・。
大事な聴覚が徐々におかされてゆきます。


どん底

 3歳で右目を失明。
眼球摘出。
9歳で左目を失明。
それだけでも過酷なことなのに、今度は耳が・・片耳ずつ聴こえなくなってゆく。
じわりじわりと、時間をかけて苦しみへと絶望へと追い詰められてゆく。
 
どんな治療をしても治らない。
何の薬を飲んでも好転しない。
それどころか、深刻な副作用に苦しめられる。
補聴器に頼れば、耳は更なるダメージを受け、残りわずかな聴力までが容赦なく削がれてゆきました。


 O病院O医師による、自然治癒力をあげるための療法に挑んだのも、”藁にもすがる”思いからでした。
「リンデロン」という副腎皮質ホルモンに対する強い疑念からでした。

●食事は一日一食。玄米菜食のみ。
●毎日運動。10キロのランニングか、もしくは縄跳び5000回。

過酷な療法です。
父親は反対しました。
家庭にも不協和音が生まれ、
母親は更に孤立。
孤立の中での迷い。

これでよいのか。もしかして手遅れになったのではないか。


智氏もその頃、存在そのものが飲み込まれてしまったような圧倒的な孤独の中にありました。

私はこの「世界」にありながら、実は別の世界で生きていた。私一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、暗くて狭い、静かな「世界」で生きていたのである。

『生きるって人とつながることだ!』より。


同じ空間に居ながら、息子のその孤独に手を差し伸べることができない家族。



手記は第八章、どん底へと続きます。

 いったいどうすればよいのか・・・・・・。夫婦も家庭も、もう終わりかもしれない。人生さえも・・・・。

毎夜しのび泣きする妻に夫が声をかけました。
「死にたければ、お前が一人で死ね。智を道連れにするな。」
と。

ここがこの一家のどん底でした。

夫の言葉を、当時は切なく悲しく受け取った令子氏でしたが、後から、これは夫からの精一杯の励ましであったと思うようになりました。



どん底が浮上の転機になる・・・このような事例は人々の体験の中でよく聞かれることです。

その頃病院帰りの親子は小柄な白いひげの爺さんに会います。
見ると「八卦」の看板がある。
その老人は福島氏の顔をしげしげ眺めると、次のように言いました。
「このお方は、今、人生の岐路にたっておる。しかし、ご先祖たちが大勢で見守っています。先祖の中には尊いお方のお姿も見受けられます。大変ですが頑張って下さい。」

指点字の誕生

 「指点字の誕生」という記念すべき日がいつのことだったのか?
令子氏は覚えていないといいます。
ある日突発的に思いつき試されたものだったのです。

令子氏が、あまりに偉そうな息子の物言いに苛立ち何か言い返してやりたい!!
ととっさに思ったときであったというのです。

しかし、言い返したところで息子には聴こえない。
台所には点字ライターも紙もない。
ふと思いつき令子氏は、智氏の両の手をとって引き寄せ、両手の人差し指、中指、薬指計6本を、点字タイプライターの配置に見立て打ってみました。
向かい合っているので逆に伝わるのですが、お母さんはその調整をする余裕はない。
「さ・と・し・わ・か・る・か」
生意気な息子に直ちに、ものを言い返そうとして行った意思疎通が指点字だったのです。

ここには、お母さんの生々しい感情がありました。
血が通った、なまものとしての言葉の伝達がここに成立したのです。



ヘレン・ケラーが手で水を受け「water」を知ったときに匹敵する重要な瞬間。
令子氏はこのように書いておられます。

しかし、智氏は初めは指点字をあまり歓迎していなかったようです。

後に東大の博士論文執筆のために、母親にインタビューした折、智氏は、
「まあ、気色悪かったんだよ。あんたは点字下手だし」
と当時のことを語ったそうです。

母の声

 母親に手を取られて、気色悪いなどと思ったらしき智氏ですが、
この瞬間について、彼は『生きるって人とつながることだ。』の中で次のように語っています。

「な、なんや、何しと・・・・・・?」。また文句を言いかけた私の言葉が、途中で止まった。
突然、母の「声」が私の心に伝わってきたのだ。
(さ と し わ か る か)
点字の組み合わせを利用して、指から指へ、直接伝えている。これはおもしろい!
「ああ、わかる、わかるで。妙なこと考えよったなあ」
口ではそう言いながら、私の内部で、何かの光が激しくスパークしたように感じた。「指点字」考案の瞬間だった。

 突然伝わってきた「母の声」・・「声」・・・それは智氏が失った「音声」として伝わってきたのでした。
指点字がなければ、今の智氏は存在しなかったでしょう。
お母様の発案された指点字は、音のない闇に暮らす息子を救ったのでした。

 どん底からの浮上が始まります。
しかし、V字のように一直線に・・
全ての悩みを払拭するように・・とはならなかったでしょうね。
その後もあがきあがきの日々を続けているうちに、少しずつ陽の当たる場所へ近づいていった。
そんな風だったのではないか?と思いますよ。
 
* * *
 
 智氏が大学院生になった年、お父様である正美氏が蜘蛛膜下出血で倒れ、一年八ヶ月の療養の後にこの世をさりました。
智氏には二人のお兄さんがいらっしゃいます。
母親は智少年の世話にかかりきりとなり、お二人の養育はもっぱらお父さんが引き受けました。
お仕事(中学校の教師)をしながらの養育。
さぞかし大変だったことでしょう。
また、幼いころからお母さんと引き離され、自由に触れ合うことが少なかったお兄さん二人もさぞかし淋しい思いを味わったことでしょう。
それを思うお母さん、令子氏の辛さも厳しいものだったことでしょう。

ご一家の皆さまおひとりおひとりに、尊敬の念を抱く私です。