ティールへ向けてのぶらぶら旅  ⑦

夕焼け見事!!

 10月初日も見事な夕空でした。
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その日は娘や孫も一緒にしゃぶしゃぶデイ!
ふと見た北側の窓…青色の中に暖色に染まった雲が美しく並んでいました。
「夕焼けが始まっているわ。」
お食事途中でしたがレッツゴーお外!
玄関を開けたらお向かいのTさん(長男Hの同級生、小学校のP会員でもある)もタブレットを空へ向けけ掲げていました。

北の空を眺めながら西へ…。
おお!見事!

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内発的な動機

 さあ、ティールへ向けての旅を続けましょう。

前回は次男Yから寄せられたラインを紹介し、ティール組織を成りたたせるために必要な経営者の姿勢について書きました。

息子は、ティール組織が機能するためには、

働いている人や組織のトップに近い人達の能力が高いことが前提となっている・・・

と伝えてくれましたが、それは納得いく指摘です。

さらに、ここでいう「能力」というものが、私たちに馴染んだイメージである。

戦力になる人材
とは違うということ。

天外氏が目指すフロー経営では、そもそも「戦う」という概念が外されておりますから、求められる人材のあり方、方向性も自ずと違ってくるのでしょう。


ざっくり言ってしまえば、
自分の思うところ、やりたいことを存分に発揮できる人。

伸びやかで柔らかい人。
(人材という言葉も相応しいものに思えなくなりました。)

そして、
「存分に発揮する」ためには、発揮したい思いや中身・・・「内発的な動機」
が無ければなりません。

図書館から借りて今手元にある
『運命の法則』
の中で、フロー理論を提唱したチクセントミハイの次の言葉を見つけました。

外発的報酬というのは、他人による評価・統制を意味する。それを導入すると、楽しい遊びも不愉快な仕事になり得る

これに関して続く天外氏の記述です。

近代文明社会はありとあらゆることに「競争状態を強化すると活性化する」という原理を適用してきた。だから、能力給を導入すれば、企業は活性化するということを誰も疑っていなかった。
「外発的報酬」の弊害を、表立って世にとうたのは、おそらく「フロー理論」が最初だったのではなかろうか。


「外発的動機付け」が「内発的動機づけ」を抑圧するということが、ある実験からも見受けられたそうで、
成果主義が、仕事それ自体の面白さや楽しさをも奪う
ということが実際あるというのです。

これらの言葉を
フムフムと受け取りつつも、それを肌で分かりきれない私もおります。

そもそも仕事というものは苦痛を伴うものだ。
だからこそ、そこに身をおいた人に報酬が与えられるのだ。

自分に染み付いた旧来の仕事感は依然遺っております。
また、天外氏が指す仕事とは、クリエイティブでホワイトな仕事に限ることなのではなかろうか?

という感想も拭い去れません。


とりあえずはそんな自分のまま、その先へと歩みを進めましょう。
ようやく、「教育」の領域ヘと。

褒めてはいけない

 すると、これまた教育界の常識を覆すような場所へとたどり着くのです。

前述した外発的報酬の弊害を、そのまま教育にあてはめたもの。

ティール時代の子育ての秘密』で天外氏が紹介する「子育て金言集17」はモンテッソーリの教育論より次のような言葉を紹介しています。
子育て金言集17

子どもに指示・命令をする、間違いを訂正する、褒める、などは「フロー」を妨害します。一切の束縛をなくし、完全な自由を与えなければいけません。(モンテッソーリ

金言集17には「フロー」の言葉が入っておりますが、モンテッソーリ教育は、ミハイによって「フロー理論」が提唱される以前に確立しております。

彼女は、「フロー」という概念がまだ存在しなかったころから、すでに子どもたちの没頭する様子に注目して観察を続け、
没頭できる体験を「モンテッソーリ教育」の柱に据えました。

この没頭できる体験を、後にチクセント・ミハイ氏が自分の提唱する「フロー体験」と同じものとして指摘したのです。

マリア・モンテッソーリ(伊: Maria Montessori、1870年8月31日 - 1952年5月6日)は、イタリアの医学博士、幼児教育者、科学者、フェミニストモンテッソーリ教育法の開発者として知られる。

モンテッソーリ教育法においては、子どもたちは生まれながらにして知ることを強く求めているもので、思慮深く用意された支援的な学習環境の中であれば、自発的に学び始める力を持っていると捉える。モンテッソーリ教育法は子どもたちを身体面、社会面、情緒面、認知面で発達させることを目指す.

(共にWikipediaより)




子どもたちが生まれながらに持っている「知ることを強く求める」働きを、健やかに伸ばすためには
指示・命令をする、間違いを訂正する、褒めるという行為を、養育者は控えなければならないということ。

子どもを褒めて育てるのは大事。
褒めると子どもは良く育つ。

このような指摘に対して違和感を持つことのなかった私は、”褒める”行為を今の仕事でも頻発しがちです。
それがコントロールにつながることにに気づいていないといったら、嘘になります。
コントロールにつながることを知りながら、「褒めることは良いことだ」という常識によりかかり、常用しているのです。

私は、ここでも立ち止まることとなります。

子育てにおいて指示・命令をする、間違いを訂正する、褒めるという行為を封じることなど可能なのでしょうか?
容易にイメージすることができません。

私の場合

 私の子育ては甘い!甘やかしていると指摘されがちでした。

もちろん、子どもの自ら育ち学ぶ働きを干渉せずに見守ることと、甘やかすことは違います。
そもそも私は、モンテッソーリの教育論を意識して子育てしたわけでもありません。


「甘い」「甘やかしている」と指摘された私の有り様は、いったいどんなものだったのでしょう??

林竹二やシュタイナーの教育理念には強く憧れたものの、所詮憧れ止まり!!

私の子育ては右往左往の連続でした。

とっくに子育て期を過ぎた私ですが、今「モンテッソーリ教育」「フロー体験」「ティール時代」などの言葉を前に、立ち止まり考えております。

この旅は一生続くような気がしてきましたよ。

kyokoippoppo.hatenablog.com