『地方公立校でも「楽園」だった』

卵を立たせた上級生

 湧別図書館の司書さんが調達してくれたこの本。
2005年9月の発行で、著者は川村美紀さんという方です。

私は主婦である。どちらかというと、家事の苦手な、なまけものの主婦である。

このように書き出されています。
息子さんが一人おり、「教育」に大いに関心を寄せるお母さんです。
主婦と宣言してはしていますが、調査研究や執筆の作業を抱えており、なかなかお忙しそう。
また、勉強熱心な方で、息子さんが小学校にあがったのを機会に、再び大学に入学したのです。(1996年)
東京学芸大学の、大学院。
指導教官が面白いと評判で、開講時間が午前中なので息子さんの帰宅時間にもちょうど良いという理由で授業を選び、学び始めたのでした。
つまり、偶然の要素が強かったというわけです。
さて、授業が始まって数回目のこと、ぼんやりとしていた彼女の耳に思いがけないワードが飛び込んできました。

巨摩中学校」・・・・その言葉は、彼女の母校、「巨摩中学校」というものでした。
長浜功教授は、戦後のすぐれた教育実践として、山梨県の巨摩中学校の実践
さらには無着成恭の『山びこ学校』
ropeth0313.hatenablog.com

東井義雄『村を育てる学力』
をあげたのでした。
hiro12.cocolog-nifty.com

 川村さんは驚きました。

私がいた中学校はそんなにすごいところだったのか。楽しくて楽しくて仕方がなかった中学時代だったが、そんなに評価されるものだったのか。

 川村さんが、この学校に入学したのは1975年のことでした。その入学式でもう、彼女はこの学校の魅力に取りつかれてしまいます。
第一部の式典のあとの、上級生による卵を立てるデモンストレーションとヨガの逆立ちの披露がありました。新入生にはできない卵を立たせる技を、なぜ上級生たちはやってのけられるのか?
その種明かしが語られ、今度はその原理による人間の倒立。
「私たち人間もこの卵のように立つのです。」というメッセージで第二部が締めくくられました。

私は心底興奮した。雷に打たれたような感じだろうか。このことを通し、なぜだろうと考える楽しさ、真実を知ったときの感動、思考の枠を取り外すことのおもしろさに興奮し、これからの三年間に胸踊らせたのである。

 川村さんにとって中学校での生活は大変楽しいものだったのですが、彼女が、入学した1975年春には、この学校は変質を余儀なくされていたのでした。

 私は、75年4月、「巨摩中学校」に入学し、78年3月、「白根巨摩中学校」を卒業した。この校名の変化の意味するものは、はかりしれないほど大きく、そして重い。私の在籍していたこの3年間に、「巨摩中学校」の教育を担っていた教師たちは、望んでいないにも、かかわらず、分散して異動になり、その教育は姿を消した。

 こう書く川村さんですが、この学校を卒業後、大学院で教授の言葉に出会うまで、この歴史的事実をしっかり受けとめていたわけではなかったのです。
 大学院生になった彼女はこれをレポートのテーマにし、貴重な教育の事実を掘り起こしていくことになるのです。
そして、7年もかけて彼女が掘り起こした貴重な事実は、中央公論新社によって書籍化され、世に出たのでした。

何故消されたのか?

 ここに触れていくと、収拾がつかなくなりそうです。
はっきり言えることは、巨摩中学校の実践は100パーセント子どもたちのために行われたのに対し、これを良くない事例と断定し、つぶしていった行為は100パーセント大人の都合であったということです。 

 今日はここまで。伝え切れなかったことは次回で。

 はてなブログで、本書について触れたものがあったので、貼り付けておきますね。
かなり過去の記事で、ブロガーさんはもう店じまいしていらっしゃるようですが・・・・。
大変的確な意見だと感じました。

d.hatena.ne.jp

再来年のことを言うと・・・・

kyoko‥中学生

 私が中学校に入学したのは、1970年の春のこと。
真新しい制服に袖を通す新生活にワクワクして、通ったことを覚えています。
 児童数増加のため、小学生4年生のときに分校に移っていった懐かしい友の顔にも再会できました。

 ぶんぞう先生という社会科の先生がおりました。(苗字より名前の記憶の方がはっきりしております。)
その文三センセが、最初の授業のときいきなりこう質問したのです。
「来年のことを言うと鬼が笑う・・・・では、再来年のことを言うと何が笑うのか?」


????何ですか?それ?

先生は教室の端の生徒を立たせて、
「さあ、何が笑う?」
と、再び問いました。
「わかりません。」
「ではその後ろ」
先生は次々と生徒を立たせてゆきます。
「わかりません。」
の答が続きます。
来年が鬼ならこれか?と思った生徒は
「福」と答えました。
文三センセは鼻で笑って「ちがう」と言いました。

 そもそも、「来年のことを・・・」という言葉だって今聞いたばかりで意味もわからないのですから、考えようもないのです。
全員の生徒が、しどろもどろでした。
文三センセは、その赤ら顔を軽蔑したように歪め、それでもって非常に満足そうに口元をほころばせました。
お前ら良く聞けよなって気分だったことでしよう。
彼は厳かに正解を発しました。
「来年のことを言うと鬼が笑う。


再来年のことを言うと・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・自分が笑うんだよ。」

 そうでしたか。
が、どういう意味でそれが正解なのかも分からない私でした。おそらく周りの級友も。

 ああ、高校受験のことを話題にしていたのかと気づいたのは、ずっと後になってから。
どだい入学したての私たちに、最終学年時を想定させようったって無理な話だったよなあ、と思うわけですが、今の子どもたちならピンとくるのかな?
自分の進路や職業について早くから話題にされることが、我が子ども時代よりずっと多いですから。

 文三先生は生徒指導の先生でもあり、朝礼の度に中学生らしさについて語り、文三先生がイメージする望ましい中学生像に私たちを沿わせようと情熱を、傾けておりました。
外出の際も制服着用!とまで言っておりました。(それを守る生徒はおりませんでしたが。)

中学生の非行や暴力(校内暴力)が取り沙汰され始めた時期で、私の在学中にも、先生の指導に反発し、暴れ、投石したりする子がいましたし、くるぶしまでの長いスカートをはき自己主張する女生徒(スケバン)も、出始めました。


学校側はますます神経を尖らせます。

このような状況は我が校だけのことではありません。1970年代の教育に関するキーワードを拾ってみると
落ちこぼれ
受験地獄
教育荒廃
非行
校内暴力
不登校
塾の乱立

と、列記することができます。

消された学校

 さて、そのような時代に
楽園」と呼ばれた公立の中学校があったというのですが、ご存知でしたか?
それは山梨県にありました。
白根町立『巨摩中学校』
という学校です。今その名称を検索してみると、
南アルプス市立『白根巨摩中学校』
の名も、多くあがってきます。

 この『巨摩中学校』と『白根巨摩中学校』は一つであって別物という存在です。
フォト・ルポルタージュ『子どもやかて悲しき50年』で、「消された学校」として紹介されている『巨摩中学校』のことを詳しく知りたくて
検索で表示された『地方公立校でも「楽園」だった』
という本を図書館にリクエストしてみました。

フォト・ルポルタージュ 子ども やがて悲しき50年

フォト・ルポルタージュ 子ども やがて悲しき50年

もう絶版になっているようで、新書ながら高値がついている本だということ。
図書館では旭川の図書館にあったその本をさっそく手配して下さって、今は私の手元に。
興味深く読み進んでいるところです。
次回はそれを、紹介する予定ですが、うーむなかなか手強いぞ!うまくまとめられるかな。

疾走する10年がもたらしたもの

廃液によって

 北国に春が来たと思ったら、あっという間に夏至が過ぎ、もう日は短くなってゆくのです。
夏を実感する前に秋が始まるようで、何ともやりきれません。
しかしこれは、冬本番の前には日が長くなり春の準備が始まる安堵とセットのもの。
そう言い聞かせて過ごすわけです。
 我が家の庭のライラックの花房は茶色に枯れ、今は鉄線が盛りです。 

      *   *   *

 急ぎ旅ではないのだ、とつぶやきながら戦後の、主に子どもを取り巻く事柄についてあれやこれやと綴っております。
 参考にしているのが、フォト・ルポルタージュ『子どもやがて悲しき50年』です。

 高度経済成長期の10年間は「疾走する10年」と、題されております。「三里塚闘争」に続くページでは、いよいよ恐ろしい姿を現した「公害」についてが掲載されています。
kyokoippoppo.hatenablog.com

その中の1ページ、

胎児性水俣病の子どもを回診する医師の写真です。解説は付されてないのでこれを掲載した編者の意図はわかりません。
ただ私はこれを見ると何ともいえない切ない気持ちになるのです。皆さんはいかがでしようか?
・・・・と言っても、このブログを読んで下さる方は極少数ですので、皆さんは?と言う書き方は大げさですな・・・
はい。ご覧になった方、いかがでしようか?

そうです。院長先生の手が後ろ手に組まれており、見えないことに起因する違和感なのです。
顔は温和に笑っておられるけれど、手は退けており、少女に触れようとしていないと感じるのです。
取り巻く周りの医師も同様で、少女は視線をあらぬ方に向け、どこにも救いのない孤独の中をさまよっているように感じるのです。
もちろんこれは事実と違うかもしれません。たまたまこの場面が切り取られたに過ぎず、この前後にこの医師の手は少女に差しのばされ、触れられていたのかもしれません。
私は単にこの一枚の印象を語りました。

 しかし、この印象は、「水俣病」に対する企業や政府の対処にまで拡大してみたとき、つまりこの少女を「水俣病に苦しむ人々」とみて、周りを「それを取り囲む社会」とみるとき、ぴったりと重なってしまうのです。

 水俣病の症状はまず、魚を食べた猫やカラスなどの小動物に表れました。それが1952年頃。
そのうち主に漁師の家族に同様の症状があらわれはじめ、死に至る者までいたのです。
56年にはこの病が公式に発表され、翌年発生した地名をとって「水俣病」と命名されました。
当時の「新日本窒素肥料」(現在のチッソ)が未処理のまま海に流した廃液が原因になっている可能性が取り沙汰されながらも、証拠が立証されないことを理由に1968年まで流し続けられたのです。

 工場の対処のひどさに、唖然とするばかりですが、「成長」のキーワードのもと、そもそも後戻りできないシステムが出来上がっていたのでしょう。
もう、目の前の、震え、痛み、悶え、話せぬ、歩けぬ人々を見ても、見ぬふりをするしか選択肢が無い状況になっていたのでしょう。
地元には「チッソ」に雇われ暮らす人も大勢いて、住民の分断も起きていたということ。
現在の「原発」に通じる課題がもうここに芽生えいいますね。kokocara.pal-system.co.jp
m.huffingtonpost.jp


 四大公害は、この水俣病をはじめとし、第二水俣病イタイイタイ病四日市ぜんそくがあります。
第二水俣病は「新潟水俣病」ともいわれ、水俣と同じ、メチル水銀化合物が原因で発生しております。昭和電工鹿瀬工場の廃液が原因でした。

 「昭和電工」は父の職場でした。現場は川崎でしたが、母は「昭和電工が公害を起こしたから、その後給料も上がらないし、ボーナスも安い。」
と時々ぼやいておりました。
痛ましい公害について理解もし、「大変な病だ、可哀想だ。」と言いつつも、生活実感としては、「あーあ給料が上がらない」というところに留まってしまうその心情は、常にお金のことを考えて暮らしている私にも理解できるリアルな実感なのです。恥ずかしいことながら。

 学校は水俣の海になった

 実に、私はこの林竹二の言葉にたどりつくために、この一連のブログを綴っております。
多くの子どもたちが通う学校が水俣の海であるというこの強烈な言葉は、当時から時が経ち、林氏を知る人も少なくなった今、もう無価値なものなのでしょうか?
その答えなど持ち合わせていないけど、いえ、いないからこそポチポチとまだ旅を続けるわけなのです。

長馬していた小学生

 校庭のない学校

 団地というのができて転校生が増えてきたのは、私が小学4年生のころ。
ある転校生は高架を走る新幹線を見て
「わあお!」
歓喜の声をあげました。

 団地は新しくおしゃれで、コンクリート製の頑丈な建物に住む友達は流行に乗っているように思えました。
うちみたいに押入れから布団を出して寝るのではなくベッドで寝るというのも、ステキに思えました。

 小学校では鉄筋校舎が増設されました。
新校舎のトイレは水洗でした。
木造校舎のトイレといったら、アンモニア臭が立ち込め、下を見ればよどんだ汚物が見え、落ちる恐怖がつきまとうようなトイレ、いや「お便所」でしたから、登場した水洗トイレに飛びっきりの新しさを感じました。

 旧来の木造校舎と、三階建て(二階建てだったかな?)の鉄筋新校舎でも子どもたちを収容できず、プレハブ校舎が校庭に立ち並びました。
 野ざらしの渡り廊下が本校舎へと続いていたと記憶しています。そこを給食の食缶持って運んだような?いや屋根くらいついていたか?
       
 とにかく校庭は狭くなるし、さらには光化学スモックが発生したら外へ出てはいけないと言われ、外で思い切り遊べなくなったのもこの頃・・・・「この頃」ってつまり、1968年頃です。

 3年生の時は男女入り交じり「長馬」をした記憶があるけれど、4年生になると確かにあまり外で遊んだ記憶がないなあ。それは取り巻く環境の影響ばかりでなかく、年齢に伴う変化だったかもしれません。
さすがに4年生で「長馬」はないものなあ。
 それにしてもみなさん、長馬・・・・ご存知ですか?

kiokuno1010.blog31.fc2.com


 男女入り交じり互いの股ぐらに首を突っ込み、遠慮会釈なく飛んだなあ。
馬の子のズボンがずれてきてお尻の割れ目みえちゃったり、(男子だったけどね。)それでも、中断は許されずたたかったものだ。

 遠い昔の思い出に ついひたってしまいました。

 児童数の増加について語っていたのでした。
私が卒業した後もこんな状態が続き、我が小学校は数年後、‘’校庭のない学校‘’としてNHKの番組で取り上げられたのでした。
    *  *  *  *  *  *

疾走する世の中にあっての抵抗

  わが小学生時代・・・世の中は高度経済成長の波に乗っておりました。しかし、加速するその流れに抵抗する人たちもいたのです。
 千葉県三里塚では、1966年に、にわかに浮上した成田空港建設計画に対し、農民たちが反対の行動を起しました。
これには多くの子どもたちも行動を共にし話題になったようです。

(写真は『子どもやがて悲しき50年より』)

子どもを含む農民が政府を相手取って闘うわけですから、そこには、やはり運動を引っ張る指導者が必要でした。革新政党がそれを担うことになり、政治的な闘争になってゆかざるを得ませんでした。指導者側からしても、闘う場や、旗印として三里塚を利用できるという相互関係が成り立ち、両者は抜き差しならない関係になっていったようです。さらに過激な党派も加わり死傷者をうむほどの闘争になっていったのです。

 現実的な生活を考えれば、条件付き賛成に転向したい住民も出始めるのは当然で、運動離脱に際しての怖れや仲間の本心がみえないことによる疑心暗鬼が農民たちを苦しめたことは、以前書いた三池炭鉱の闘争と同じ構図のように思えます。
kyokoippoppo.hatenablog.com


 さて、機動隊によってことごとく鎮圧された学生運動も、混沌としてゆきます。
kyokoippoppo.hatenablog.com
三里塚闘争へ加担したり、「安保反対」(10年という期限が迫った条約の延長阻止)の声を挙げながら街頭にくりだしておりました。彼らは、いつの間にか多くのセクトに分かれ、反目しあい、彼ら同士が戦い始めたのです。
違う色のヘルメットをかぶり、ゲバ棒を振り、火炎瓶を投げ、ただただ路上で暴れているようにしか見えない彼らの映像は連日テレビに映っておりました。


 ベトナム戦争から兵士を匿う動きもでてきました。戦場からの脱走した兵士を助け、受け入れる活動をする人たちが現れたのです。

 このように体制に抗う人たちの主義や方向性は一色ではありませんが、疾走する時代の中で様々な思いや、エネルギーが噴出した時代だったのだなあと思います。

 そのような世の中の流れに巻き込まれる年代でなかった私が、中学生になった頃には一転「三無主義」などという言葉があらわれ、無気力、無関心、無感動な若者気質について話題になったものでした。

 今回の記事は苦労しました。前半と後半がつながっていないように感じますがこのまま投稿。
・・・でタイトルも決めにくく、結局「長馬~」にしてしまいました。

1969年 大学闘争のころ

気温急降下

 暑いね、暑いねとあいさつを交わしていた数日前のこと、夕方になるとともに冷たい北風がオホーツク海の方から吹いてきて、気温が一気に落ちました。
 今朝はカッコウののどかな鳴き声も、ハルゼミの賑やかな鳴き声もビタリと止み、シトシト冷たい雨が降っています。
 冬の寒さはもう仕方がないと諦めるものの、この時期の寒さは、非常に損をしたような気分になりますね。仕方ないとは言いがたい。  おーい・・・・何だよお・・・という気分。


 戦後の、子どもを取り巻く状況やら教育に関することをつらつらと綴っております。その過程で林竹二氏にも迫っていきたいと考えています。
 

若者たちの激しい抵抗

 米軍のファントム機が、九州大学箱崎キャンパスに落ちたのは1968年6月のことでした。今からちょうど50年前のことです。
被害を受けたのは、建設中の建物でしたのでケガ人はいませんでしたが、墜落の現場は生々しく、一部の学生たちはこの事件を米軍板付基地反対闘争に利用しようと考たのでした。
建物に突き刺さった機体をそのままにして、反戦平和運動の象徴としていこうとしたのです。

 しかし明けて早々の1969年1月5日、その機体が何者かによって降ろされます。
この年のこの出来事をきっかけに、国内の大学は次々と闘争の舞台となってゆくことになります。
それにしても、建物に刺さったままの機体は半年は放置されていたということですよね。
今では安全面という点で、まずあり得ない状況のように感じます。
この事件から50年の節目だということで書かれた、毎日新聞のフレッシュな記事を見つけましたので貼り付けてみました。

https://mainichi.jp/articles/20180601/k00/00e/040/329000c

 これが呼び水となったように1969年は様々な学生闘争が繰り広げられました。

10日後、同月16日にはには京大闘争が始まり、
18日東大安田講堂に立てこもっていた全共闘に対し、機動隊が導入されました。二日間の攻防の末に封鎖解除。
    このような強行策は火に油を注ぐ結果となりました。
2月18日・・・日大文理部に機動隊導入、バリケード解除。
2月26日・・・京大全共闘が時計台封鎖。
4月28日・・・沖縄デー、各地で集会やデモ。
6月29日・・・新宿西口広場のフォークソング集会に
     7000人が集まった。
7月24日・・・衆院大学臨時措置法強行採決
8月 5日・・・参院でも強行採決
9月 5日・・・全国共闘連合結成大会(新左翼と178の
      大学共闘参加)
9月22日・・・46時間の徹底抗戦の末京大時計台砦
     解除
10月14日・・・九大全国の大学で最後の徹底抗戦。
      3時間後に解除。
      米軍機は板付基地へ運び出された。

★なにい!例の機体は引きずり降ろされただけで撤去には至っていなかったのですね。 

九大に始まり、九大で終わった大学紛争だったといえましょう。

10月21日・・・国際反戦デー。騒乱罪適用。
11月16日・・・佐藤首相訪米抗議集会
11月21日・・・沖縄復帰共同声明。
f:id:kyokoippoppo:20180609154026j:plain

 なんともすごい一年間だったなあと感じます。
この時期の若者の闘争にかけるエネルギーと、一直線の思想に驚くばかりですが、実は個々の内部に育った意思による行動というよりは、その時の巨大な流行に乗った、乗るしかかなったというのが実態ではなかったでしょうか。
国を相手どるという壮大なドラマと、個人の実像とのズレを感じる人も出始め闘争の質はかわっていったようです。

すでに、この年の夏に大学法が国会を通過して成立し、秋も終わりになると、多くの大学でスト解除が始まっていた。運動は街頭へ出て行かざるをえなくなった。スローガンも「佐藤訪米阻止」、「70年安保粉砕」など政治色を強めていった。街頭デモでは、角材や竹竿が乱立するようになった。
 学内の運動も、学生の多くは遠巻きに見るようになった。

              番場友子「全共闘運動の突破口としての『性差研』創設」より

※今日のブログには、この時代特有の言葉が随所に見られますが、その説明は省くことにしました。首をつっこんだらきりがなくなってしまいますし、内容も多くなり、難しくなってしまいそうだからです。


この1969年…この年、斎藤喜博氏は59才で定年となり、校長職を退いています。
林竹二氏宮城教育大学の学長になりました。
大学紛争激化のさなかでの就任となったわけです。
同大学でも学生達による人文棟の封鎖と占拠が起こりました。他の大学と同様に、警察導入による解決を勧める声もあった中、林氏はみずからバリケードの中に入り、対話を進め、最終的に学生による自主解除という解決に至ったということです。このようなことは全国でもここだけだったようです。
seturi597.blog.fc2.com
この件について書かれているブログです。

本日午後、ストーブに点火した我が家でした。
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斎藤喜博と林竹二

カッコウ

 6月・・・・夜明けが早く、カッコウの声が聞こえてくる季節。ライラックも開花しました。f:id:kyokoippoppo:20180604125628j:plain:w100:left
こちらで暮らして間もない頃はカッコウの鳴き声に感激し、新しい土地で暮らすのだなあという思いを新たにしたものです。
夏至のころの夜明けの早さにも驚きました。3時半には東の窓から強い日差しが注ぎ始めるのですから。
爽やかな季節の到来です。

    ❇️ ❇️ ❇️ ❇️ ❇️ ❇️

 さて、今回は斎藤喜博氏と林竹二氏のおおざっぱな年譜と社会の様子を並べてみようと思います。上手くまとめられるかなあ。


1906年・・・・林竹二生まれる

1911年・・・・斎藤喜博生まれる。

★お二人とも関東のご出身です。
大戦の6年間をそれぞれ‘’働き盛り‘’という年齢で越えていらっしゃいますが、服役したという記述は見当たりませんでした。

1934年・・・・林竹二 旧制東北帝国大学哲学科で
    ギリシア哲学、プラトンを学ぶ。

戦後
1945年以降・・・東北大学で教育史を担当。
       森有礼を研究。
       ソクラテスの問答を下じきにした
       人間形成論を構想した。

Wikipediaの情報を元にしました。・・・・人間形成論って?と思いつつの引用です。
ソクラテスについては後に行う授業の題材になり、その問答法は、実際の児童生徒とのやり取りに活用されます。


1952年・・・・斎藤喜博 島小学校の校長に。
     11年という長きにわたりここに勤め
     毎年授業を公開してきた。

1963年・・・・島小を去り、近隣にある別の小学校で
     校長を勤める。


この年(1963年)経済審議会より、「経済発展における人的能力政策の課題と対策」か出されました。
教育が、経済の発展を担い始める転換点になった答申だといわれております。
国際的な競争力に負けぬよう独創的な科学技術の発展を目指し、日本経済を発展させるためのエリートを育てようとしたのです。

★調べてみますと、「ハイタレント・マンパワー」という言葉がみられます。上位3%ほどをそういう人材に育てようというのです。残り97%は黙々と働く労働者であれば良いということでしょう。
それにしても、「ハイタレント」という言葉、今話題になっている高プロ」を連想させますね。

疾走する10年

 日本はこうして高度経済成長の波に乗ります。
『子どもたちやがて悲しき50年』では60年半ばあたりからの10年間を「疾走する10年」と名付けています。

フォト・ルポルタージュ 子ども やがて悲しき50年

フォト・ルポルタージュ 子ども やがて悲しき50年

 子どもたちの生活、姿、表情も変貌し始めます。
主婦はサラリーマンを支え、子どもの教育に熱を注ぎ込む存在として定着し始めます。
そんな1960年代は、私が小学生になった時期と重なります。「教育ママゴン」という言葉が流行ったことも記憶にあります。

1996年・・・いざなき景気が到来。
     三里塚空港建設計画が浮上、
寝耳に水の農民たちの抵抗運動が始まった。

この時代は確かに「疾走する10年」ではありましたが、先の10年に引き続き「衝突する」ものという印象も強いのです。三里塚での抵抗もそうだし、大学では学生たちの、国が要請する人的資源を効率よく提供するありかたに対する抵抗が始まります。
 さらに学費値上げや学生会館管理運営に対する反対運動、また日大では多額の使徒不明金に対する学生の怒りが闘争となって吹き出してゆました。
 
 国外ではベトナム戦争が激化しておりそこに加担するアメリカと追従する日本の姿勢にも反対の声があがります。
 これは後に70年安保闘争の流れとなってゆきますが、熱病のような学生運動と相まって、60年安保闘争とは違った様相を見せるのです。

★体制を揺るがそうとする若者たちの動きはテレビや新聞を通して10才の頃の私に届いていました。
 デモの波、口にタオル、頭にヘルメットの学生たち。投石の現場、掲げられるプラカード、闘争という文字・・・・それらがテレビの画面でうごめいてい ました。もちろん白黒画面です。
 不可解で、遠くて、騒々しくて・・・・・白黒

1969年・・・・斎藤喜博 59才で定年。
 同年・・・・林竹二 宮城教育大学学長に。
 (宮城教育大学東北大学から教育学部と教職課程が分離独立したことによりに生まれました。林氏はこれに最後まで反対抵抗したと語られています。反対の理由は分かりませんが、この流れを留めることはできず、林氏は同大学の第2代学長に就任しました。)


気温が上がり、エゾハルゼミがいっせいに羽化したようで、シャンシャンシャンシャンと鳴き声が聞こえてきます。

「島小」というメッカ

千葉保先生

 私に「斎藤喜博」を教えてくれたのは、教育実習の担当教諭、千葉保先生です。

 私が学んだ鎌倉市の短大は,実習先を学生にしっかりと割り振ってくれました。
私の実習先は、鎌倉市立腰越小学校。
湘南の海を望む場所にあり、毎日江ノ島電鉄、通称江ノ電に乗ってその場所に、通いました。f:id:kyokoippoppo:20180527155955j:plain:w300

 千葉保先生は大変ユニークな先生でした。児童の信頼を得ており、好かれてもおりました。
千葉先生は「斎藤喜博」の本や、合唱のレコードを貸して下さいました。
「ほろほろとー~🎵」なんて大好きになりました。
そのように志の確固とした、素晴らしい先生の元で私は教育実習を楽しみました。
今から40年も前のことです。

 さて、ご存知のかたもいらっしゃるかもしれません。千葉先生は後に、社会の仕組みを子どもたちに伝える本を数冊出していらっしゃいます。
http://www.tarojiro.co.jp/author/3840/

 こんな素晴らしい先生にお世話になったのに、私が先生として働いた期間は、わずか3年間でした。
当たり前の話ですが、仕事はなかなか難しかった。
若さと未熟さだけが持ち合わせのすべてという当時の私・・・・気力体力を駆使するも、ままならなさに翻弄された3年間でした。
 それでも、その仕事を続ければ、私はそれなりに「先生としての自分」を作っていくことができたのかもしれません。しかし私は、結婚して北海道へ行くことを決めており、悪戦苦闘した現場からさっと身を引いてしまったのです。

島小の教育

 寄り道をしながらも、戦後の教育史をたどっています。詳しい知識があるわけではないので、
フォト・ルポルタージュ
『子どもやがて悲しき50年』
を参考にしております。



かつては群馬の辺境、利根川に南北に分断され、渡し船で往来する北の本校(児童数235名)、南の分校(129名)に分かれた小規模校に、1952年4月、斎藤喜博さんが初めて校長として赴任する。それから11年間、‘’戦後民主教育のメッカ‘’といわれる学校づくりが開始される。作家・大江健三郎さんは「そこにいる小学生たちの本当の新しさには、ほとんど圧倒される思いだった。」(『未来につながる教室』)と書いている。

ルポの編者である村上義雄氏はこのように書き、
島小学校(島小)の写真に7ページを費やしています。
最後の見開きページを見ると、まさしく‘’メッカ‘‘
と感じずにはいられません。f:id:kyokoippoppo:20180527194051j:plain:w320:right
(貼り付けた写真は、見開きの片側のみ。)



 斎藤喜博氏の実践について語られた良い記事を見つけましたので、どのような教育だっのか?はこちらをご覧ください。


<<教育問題の解決方法を考える>>


http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/198320/173207/84745325

 斎藤のいう教育の創造的な仕事は、つねに目の前にある事実と対決しながら、事実のなかから、つぎつぎと新しいものをつくりだしていくことである。つくり出されたとき、子どもは明るく美しくなり、しなやかで清潔な姿になるのである。授業のなかで、瞬間瞬間に美しいものをつくり出せないとき、暗くなったり、閉ざされたものになる。

一部抜き書いた上記の文は、林竹二の言葉とも重なっていると感じます。

どの子にも無限の可能性があること、
深く学ぶと子どもは集中し、美しくなること。

  *  *  *  *  *  *

学校での勉強に苦労した我が子が、斎藤せんせいや、林せんせいや、千葉せんせいと一緒に学んだとしたら、どんなだったかなあ。
なにより私も受けてみたかったなあ。


 追記・・・ご紹介した千葉保先生の本
www.tarojiro.co.jp
「太郎次郎社エディタス」から出版されています。
また、今私が記事を書くにあたって活用しているフォト・ルポルタージュも「太郎次郎社」の出版です。
「太郎次郎社(エディタス)」は私にとって大切な本を、世に出して下さった貴重な出版社なのです。