体育座りからたどりついた意外な境地②

先生達は子どもを見ていない

 写真集『授業の中の子どもたち』(日本放送協会出版協会)のⅢ章に、林竹二と竹内敏晴の対談が載せられています。
下記はその一部です。

竹内  つまりその一人一人に可能性があり、その一人一人が主役だということと、    そこで発せられていることばがそのまままかり通るということとは全然別だということ・・・・・。
林   だから先生達は子どもをみていないというんです。子どもの内部におきていることが 見えないばかりか、発言の内容さえもみえない。発言の回数ばっかり、量ばっかり問題に  なっている。(笑)これを私は子ども不在だというのです。
竹内  ぼくは、そういうことを言われるとだんたん学校では何をやってるかわかんなくなっ てくるけれども。(笑)

 
 現場の先生の忙しさや、追いたてられて仕事をする実情に対して理解を示しながらも、お二人は、現場の先生がいかに子どもを見ていないか、子ども不在の授業をしているかを厳しく指摘しています。

 私がこの本に出会ったのは、まだ学生の頃でした。
このような主張に接し、自分は辛辣な批判の対象にはなりたくないと、強く思いました。
また、「先生方」は対岸におり、このような先生批判に同調するのは容易だったのです。

 「先生」になった私

 そしてそんな私は、数ヵ月後には「先生」になっていました。
 もちろん、子どもをしっかり見て、一緒に考え、子どもたちが授業の中で輝くような・・・・などと理想はあったのですよ。
 しかし、現実はあまりにお粗末。
児童がうるさい、離席する、造反する、けんかをする、私はオロオロわたわた。
理想はあっという間に手の届かぬ雲の上のものとなりました。
いいだけあがいて、現実を知った三年間でした。

 林竹二の影響

 私は結婚して、北海道にやってきました。
教職にはつきませんでした。
北海道の採用試験に落ちたのです。そして再び受ける気持ちはなかったのです。

その後母親になった私。

 母親になってからの子育てや、子どもが学校に上がってからの学業との付き合わせかたに、林竹二の影響は残りました。
自分に都合の良いでたらめな解釈をしたのかもしれないと思いもしますが、それも含めて林竹二の影響といえましょう。

林竹二→三年間の教員生活→明星学園公開研見学(林氏の基調講演)→教育雑誌『ひと』との出会い→鳥山敏子→『賢二の学校』→ワークショップの体験→いっぽいっぽ通信(紙媒体の通信)

 これを「道」と言っては大げさかもしれませんが、私の興味関心はこのように繋がっており、ささやかながらも、思いや考え方はこの系統の周辺におりました。
 そして、林竹二氏や竹内敏晴氏はここにおいては要をなす人物なのです。

 お二人には体験や実践から培われた鋭い感性があり、揺るぎない思想があります。
 実践は更なる確信を導き、多くの著作物となりました。
対談は書籍化され、多くの人がその示唆に触れました。

『ことばが劈かれるとき』

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ちくま文庫としては1988年に出版されておりますが、それに先立ち1975年に「思想の科学社」から出版されており、竹内氏のおそらく最初の出版物でしょう。

 難聴であったり、全く聞こえないという耳の不自由と、それに伴い話せない、伝えられないという苦しみを味わった竹内氏の体験から導き出された主張や言葉が綴られております。漫然と声を発することに慣れきってしまったからか、私の感覚があいまいなためか、理解しづらいところが多々あります。

 そもそも『ことばが劈(ひら)かれるとき』というタイトルからして、難しいではないですか。
劈は、ひらーくとは読みません。(ブログ記述にあたっては、「へき」という音読みから変換しました。)
調べたところこの漢字の意味は、「つんざく」とか、「切り裂く」というもの。
竹内氏にとっては、この文字をタイトルにあてる必然が当然あるわけです。
ところが私は本を読んでもこの必然を感じとることはできません。

 また、本書で紹介されている「話しかけのレッスン」。・・・簡単に言いますと
相手の声が自分にどう届くかを体験する。
逆に自分の声を相手に届けるということをして、話しかけるとはどういうことか?を追求する・・・このようなレッスンです。
実のあることば、質感を持ち、衝撃としてガツンと届けられることば・・・・音量のことを指しているのではないのです。
身体を切り裂くようにしてうまれ、つんざくような鋭さを持って・・・つまり劈かれることによって発せられるか?が問われるのでしよう。
・・・と解説めいたことを書きながら思います。
さて、私はこのようなことが果たして判かるのでしょうか?
・・・・・自信がありません。
竹内氏の著作の字面を真面目に追っても、感覚的に分かっていない自分を知るばかり。
自分の鈍感さを感じ、ついていけてないなあと痛感するのです。
そんな気後れがあるのです。

ことばとは<からだ>から<からだ>へ、人間の主体から主体へ働きかけていく働きの一つの形態にすぎないのだから、教師<親も>のこえが豊かで明確で、充分に子どものからだに届かなければ、子どもたちは動かないだろう。子どもの話ことばとこえの訓練は、教師の訓練から始まらねばなるまい。残念ながら、日本の現状では、貧しくやせたこえの教師がせいいっぱいカン高いこえで子どもを威圧しようとしている例が多すぎる。

(『ことばが劈かれるとき』より)
「ああ、私のことだ」とはわかるものの、そこから先には進めない。

 それでも、私にはこの系統の周辺を歩いてきたという自負のようなものがあり、このブログでいつか林竹二について書こうと思ったのも、戦後の教育史をつらつら綴っているのも、(しかも、太郎次郎社出版の書物を参考にしながら・・・・)その思いがさせていることなのでしょう。

そして、前回のブログです。
kyokoippoppo.hatenablog.com

「体育座りは、教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。」
という竹内敏晴の意見が載せられた他者のブログを貼って、より自分のブログを体裁良く、箔をつけようという思いがありました。
ところが、検索にかかったうちこさんのブログ記事を読んで私は、はっと立ち止まることになりました。
uchikoyoga.hatenablog.com
竹内氏の見解に対して持った、彼女の違和感が述べられておりました。
体育座りについては、竹内氏以外にも、多くの整体師さんなどからも意見が寄せられており、おおむね体育座りを批判する内容でした。
そのなかにあって、うちこさんの発信は異色のものといえましょう。
しかし、どちらが正しいかという問いはもはや不用です。

この章を読んで(竹内氏の体育座りに対する見解)「ほんとだ!ひどい!」という意識に引っ張られていたかもしれない。子どもや弱者を題材にされると、特にそういう引力が働くので。本を読んでると(「寝ながら学べる構造主義内田樹)「なるほど」と思うことがたくさんあるけど、自分の感覚で疑ってみる読み方ができるくらいの冷静さは、強く気持ちを引っ張る力のある主張や弁論に出会ったときも忘れずにいたいものだ、と思いました。

()はkyokoによる補足

本当に、本当にその通りだと思います。

短絡的かもしれませんが・・・

今、次々と明るみにでてきているパワハラ問題。
もちろん強権的な態度をとり、パワーで、物事を、押しきる権力者の存在は、問題です。
しかし、パワハラ問題には必ず相手がいるということに気がつきました。

 そして、これには様々なグラディエーションがあって、
例えば、私が竹内敏晴氏の主張を理解しきれず、「私は鈍感だなあ、ついていけてないなあ。これが理解できないのは私に足りない何かがあるのだなあ」と思って、卑下したとき、もうその関係に落差が生じてしまう。
その人が言うことは正しくて、理解できないのは私の未熟さであると思うと、うちこさんのような姿勢を忘れ、自分を通さずその意見に同調してしまったりする。
それは、自分を明け渡してしまうことなのだなあと感じました。
(被害に合われた方の態度や姿勢の良し悪しを言っているのではないことを、どうぞご理解下さいね。)
パワーはそれと見えない形でも発揮されるし、受け手が勝手にその構図を作り出すことがあると気づいたのです。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 林竹二氏や竹内敏晴氏が、自分の体験や、たゆまぬ研鑽や実践のなかから導きだしたことを、それをしない人が理解することは難しい、いや、不可能なのかもしれません。
そのかたたちの言葉を真に学びたいのなら、まずはうちこさんのような姿勢が絶対に必要なのです。

ブログをやっていて良かったな。
やっていなかったら私はこの地点を、素通りしていたな。

‘’体育座り‘’からたどり着いた意外な境地①

きょーつけえ!やすめ!きょーつけえ!やすめ!前へならえ!!

 ’’体育座り’’・・・ご存知ですよね。
’’三角座り’’とも呼ばれるそうです。
皆さんはのようなイメージをお持ちでしょうか?
 
 私は近所の小学校で支援員として働いております。体育座りといえば、もちろん体育の時間に先生のお話を聞く際取る姿勢です。
あるいは、全校集会のとき。
「おはようございます。」
と挨拶をかわし、校長先生のお話が始まるとき、
「座って下さい。」と言われます。この時子どもたちは体育座りでお話を聞くのです。

 自分の小学生時代は、外での朝礼がほとんどでした。
暑くても寒くても外に立ってお話を聞いた記憶があります。
 体育館での朝礼ももちろん記憶にありますが、立って話を聞くのは当たり前でした。
貧血を起こした子が時々バターンと倒れたりしていました。
「きよーつけ!」「休め!」
「きよーつけ!」「休め!」
という教師の号令が繰り返されました。

 それと比べれば、体育座りでお話を聞けるのは楽チンだよなあと感じるのです。

 立つよりは楽ちんと感じる体育座りに潜む陰謀?

 さて、今回はその体育座りの話題です。
前々回のブログでは管理教育が盛んだった頃の、静岡市の小学校での光景を紹介しました。
後ろに手を組んで校舎内を歩かされる子どもたちの姿です。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 今回は、体育座りをする子どもたちの写真です。(『子どもやがて悲しき50年』より)
同じ小学校で撮られたものです。
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特徴的なのは皆、体育座りの姿勢をした上で、顔を伏せていることです。
どんな時に何の目的でとられた姿勢かは分かりません。
編者である村上義雄氏は、この様子を‘’全面降伏の姿勢で待機‘’と表しています。
この、体育座りについてつらつらと検索していて見つけたのが下記の記事です。
news-neohiro.blog.so-net.ne.jp
おお!竹内敏晴氏のお名前が!!

貼り付けた上で内容を簡単にご紹介します。

体育座りは1958年に各学校に通達され広められたものである。
自分の手でもう片方の手をつかむので、手いたずらを防ぐことができる。
首の可動域もせばまるので注意散漫を防ぐことができる。
著書『思想する「からだ」』のなかで、竹内敏晴氏は、
「苦しく自由を奪われる姿勢を、無自覚に受け入れさせ、時に楽なものとさえ思わせる、これは最も残酷な仕打ちである。」
と述べ、この姿勢を強いる教育を強く批判している。

思想する「からだ」

思想する「からだ」

こんな記事も見つけました。
k-dystopia.com


 竹内敏晴氏は林竹二氏の教育に対する姿勢と意見に深い理解を示し、多くの対談を重ねてきた人です。
何冊かの著作も読んでいる私です。
竹内氏の、体育座りに対しての鋭い洞察・・・

 私は、自分のブログにこれを貼り付けることに何のためらいもありませんでした。
竹内氏の鋭い洞察を添えることで自分のブログにも、箔がつくような気持ちでおりました。
しかし、
同じ竹内氏のこの意見を引用しながらも、別の感じかたを述べたあるブログに出会ったのです。

私を立ち止まらせた記事

uchikoyoga.hatenablog.com

続きは次回に書きます。

後ろに組まれた手がほどけていく

後ろに組まれた手

 前回は静岡県のある小学校で写された写真を紹介しました。
校内を歩く際、手を後ろに組むことを強要され階段すらもそのようにして歩く子どもの姿でした。
つまずいても手も出せない、不安定極まりない姿勢。
1970年代から1990年半ばあたりまで続いた管理教育の一つの形を紹介したのです。
kyokoippoppo.hatenablog.com


 現在私は、近所の小学校で支援員として働いています。
授業中の子どもたち・・・・消しゴムで一心に机をこすって練り消し作っていたり、ノートにいたずら書きしていたり、色とりどりのキャップを並べていたり、授業に集中するのが苦手な子どもは、苦痛な時間をやり過ごす方便として、その手を使って様々なことをしております。
私はそばに行ってはチョンチョンと背中をつついて注意したり、励ましたり、触っている物を預かったりするのです。
 彼らの手が必要でないことのために動き出すからといって、その手を後ろ手に組ませることなど、今の学校現場ではあり得ません。
 しかし、管理教育が蔓延した頃は子どもたちの動く手を封印しようとしたのでしょうね。


そんな時代の、そんな教室に、
林竹二は授業者として登場しました。

自然にほどけた手

 1975年2月、永田小学校3年生の教室です。
当時の文部大臣「永井道雄」がこの授業を参観し、40人を越す報道関係者も教室にひしめき合っていたそうです。
 演出家で、その後林氏と密な交流を持つことになる竹内敏晴氏が、初めて林竹二の授業実践に触れた日でもありました。 
 そのような状況の中、子どもたちはみごとに授業に集中してゆきました。

このクラスでは、最初のうち子どもたちは全員が手を後ろに組んでいた。ふだんからこういう姿勢で授業を受ける習慣になっているのだろう。しかし、授業が進むにつれて子どもたちは自然で楽な姿勢に変わり、深く授業に入り込んできた。

『授業の中の子どもたち』(日本放送出版協会)より


 この文により、当時この小学校でも‘’後ろ手に組む姿勢‘’が子どもたちに強いられていたことがわかります。
たくさんのお客さんを迎え、大学の学長先生の授業とあって、子どもたちはお行儀良く授業をスタートさせたのでしょう。
しかし、学びが深まるにつれてその姿勢は自然とほどけてゆきます。
‘’楽で自然な姿勢‘’へと。

林竹二は『学ぶこと変わること』(日本放送出版協会)の中で

自分の身体をおきざりにして、こころだけが授業にふかくはいってゆくなどということはありえない。

と述べております。

手を後ろに組んだままの姿勢で、椅子の背に自分の背中を貼り付かせたままで、授業にのめり込むということなど不可能ということでしょう。

前のめりになって授業者の言葉を聞いたり、思いや考えを内に向けたり・・・・とまどい、行きつ戻りつ考える・・・・。
集中して取り組んだ授業の流れの中で見せた子どもの身体、手、表情は非常に良く動き、実に多彩な姿を繰り広げます。
写真をご覧下さい。

永田小学校3年生 「人間」の授業↑
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永田小学校 6年生 「開国」の授業
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沖縄 
久茂地小学校 4年生「人間」の授業




この写真の男の子は、授業中特別に発言はしなかったのだが、身を乗りだし、くい入るように見つめる目が、彼の内部に生じているドラマをまざまざと伝えてくれる。
『授業の中の子どもたち』より

それを始めから封じ込める’’後ろ手に組ませる姿勢’’は、ものを考えることを禁じることにに通じていると考えて良いでしょう。


     *   *   *   *   *

まだつづくよ

 林竹二についていつか書きたい。
そこにたどり着くために、戦後の教育や子どもたちをめぐることがらについて綴ってきました。
いよいよ、林竹二が登場しました。
でもここはまだ通過点。

まだ、このテーマで書きつづけてゆくつもりです。

何のための教育?

管理教育

 学校というところは、少なくない人数の、まだ未熟な子どもを集めて一定時間預かるわけですから、ある程度の管理は必要なのだと思います。

 そしてその程度によっては、足りない=指導できていないと指摘されたり、
過剰=やり過ぎと言われたりするのです。

 程よいポイントが明確に定められているわけではないのでそれは、時代や、場所やその場を作る集団やリーダーによって様々な形で現れます。

 そして過去には管理のありようが、いき過ぎており、異様で異常であった時期がありました。

1970年代の後半から、90年代半ば頃の出来事です。
 『子どもやがて悲しき50年 太郎次郎社(現在の太郎次郎エディタス)
を参考にして、戦後の教育や子供のをめぐることがらについて綴っております。

フォト・ルポルタージュ 子ども やがて悲しき50年

フォト・ルポルタージュ 子ども やがて悲しき50年

 
 管理の有り様が過剰になったのには、そうなる必然あったと考えられます。

⚫ 戦後、様々な価値観がガラガラと変わる中、民主主義が声高らかに叫ばれ、教育も新しい希  望と理想のもと再出発。
⚫ 経済の発展が日本国の最優先課題となるなかで教育もそれを担う役割を負うようになりま  す。

⚫ 勤務評定反対闘争や、三井三池闘争 安保反対闘争 三里塚空港建設反対・・・若者や子  どもたちが社会に対してものをいい抵抗した時代が訪れます。

  そしてそれらはことごとく潰されてゆきました。


⚫ 闘争の果てに先鋭化した一部の若者がありました。社会と隔絶し思想を研ぎ澄ませてゆくな  かで、内部での総括やリンチが横行し、リンチ殺人、山荘立てこもり事件にまで行き着きま  した。

(パソコン画面を整えたらスマホ画面が微妙だ。これって対策あるのかしら?)

これは、反権力の闘争そのものの終着点であり、その敗北を痛切に感じさせる出来事でした。



教育界においては
未熟な若者に主導権を握らせてはいけない、
自由をはき違えさせてはいけない。
大人がコントロールしなければならない、
という流れが、加速したと考えられます。

縮こまる姿勢

管理教育を伝える『子どもやがて悲しき50年』の1ページです。
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 この写真を見てどのような印象を受けるでしょうか?

手前の少年は肩をあげ、首を縮めて階段を降りています。
その奥の少年はお年寄りのように腰を曲げております。
管理教育のはしりとなった静岡市にある小学校の光景です。

階段の上り下りにも、廊下を歩くにも、両手を後ろに組んで歩くことが課せられたというのです。
安全面から考えても大変不合理。
そして子どもの姿のなんとも哀れなこと。

この決まりは何のために定められたのか?
子どもの反乱を未然に防ぐため?
このように歩かなければならないわけがわかりません。
歩き方そのものに理由はなく、指示を守られるためだけに発案されたものなのでしょうか?
思春期にも達していない子どもたちにまで、このような管理が及んだ地域もあったのですね。

 このように手も足も出ない状況を作り出すことが、学校の使命であるかのような状態がまかり通っていたのです。
中学校や高校では理不尽な規則が作られ、頭髪や制服の厳しい点検が繰り返されました。

 それでいて、その頃の若者の有り様は、「三無主義」などと称され、その熱量の無さについて、嘆かわしいと指摘されておりました。

 一方で、 三無主義を吹き飛ばすかのような「熱中する若者」を、強制力によって作る学校もあったりして・・・何だか気持ちの悪い時代に突入です。
kyokoippoppo.hatenablog.com 

管理教育についての記事を貼り付けました。
rebuild.hateblo.jp
こちらは上記に貼った過去ブログ「嫌な場所 怖い場所」に関連するものです。
http://www.mammo.tv/column/seiji_fujii/20010618.htmlwww.mammo.tv

停電という非日常 ②


 見開き全面の記事が届きました。(北海道新聞

キアゲハ前蛹

 職場である小学校は、朝6時に停電が解消されていたら通常通り、引き続き停電だったら休校・・・
この連絡は前日受けていました。
同僚の支援員さんが直接我が家を訪ねて口頭にて伝えてくれました。

 通勤の先生には届かぬ連絡でした。
朝、6時・・・・・電気はまだ。
今日もお休みです。しかし金曜日。
土日がやってきます。
キアゲハのえさを補給しなければ。
我が家に引き取っても良いのですが、道路沿いに生えているシシウドの大きな葉を補給すれば大丈夫だろうと思い、シシウドの葉をちぎりに行き、それを車に突っ込んでから学校へ顔を出しました。

 教室へ行くと、二匹とも丸くなり壁面に貼り付いて前蛹の形になっておりました。
持ってきたエサは不用ということです。
これから最後の脱皮をすると、鮮やかな縞模様が跡形もなく消えて黄緑色の蛹に変身するのです。
ああ!この過程を子どもたちに見せてやりたかったな。

電気はそこまで

 職員室に降りました。
通勤で来た先生によると、同じ町の隣の地区には電気が来ていたとのこと。
長い一本道なのですが、信号のついているところとついていないところと、まだらだったとのことでした。
近くまで電気は来ている・・・・となるとこちらもじきか?
そんな希望もわきながら、何故ここには来ない?
という取り残され感も強く感じるのでした。

 みんな一緒という協調の気持ちがすうっとなくなつて、近しいお仲間が優遇されていることへのやっかみのような気分を感じました。
確かに、隣の地区には病院が2つあるのですから優先される理由は理解できるのですよ。

来るのか?来ないのか?

 その日は臨時の校長会議があり、今後の対応が話し合われるとのこと。
決まったことをどう各家庭に連絡するか?・・・・・戸別訪問しかないだろうと。
(電気が来なかった場合)

となると今日こそ何かお手伝いがありそうです。(電気が来なかった場合)
そう。来るのか来ないのか?
これによって見通しも、動きも違ってくるのです。
一旦家に戻り3時頃また学校に行くことにしました。

 校長会議の結果
 月曜日は休み・・・・このように決まったのです。たとえ電気が来ても休み。
何故?と思いますが、停電が長引く予想が強かったのでしょう。
復旧のまばらな様子も懸念材料だったのでしよう。

 印刷は電気が復旧している隣の地区の小学校に頼み、出来上ったものを折って封筒に入れ、各地区を回り配りました。
私は車を出して、もう一人の先生と漁師のご家庭が集まる集落を回りました。


 任務終了。電気の通っている地区に実家がある先生は、
「ここにはおさらばだ」と言わんばかりにこの町から去って行きました。そりぁそうだ。

 夕方が迫ってきます。
曇り空で、暗くなるのも早そうです。
今夜は星も見えないでしょう。取り残され感がますます募ります。

第二夜

 夜ご飯はホッケの干物を焼きました。
凍れがいよいよ解けてきたホタテのヒモの刺身も出しました。刺身といってもホタテのヒモはさっと湯通ししてあるので大丈夫。
美味しい食卓でした。


 全く用をなさない四角い物体と化した携帯ですが、充電が減ってくるとなにやら心配になるものです。
電気さえつけばすぐさま充電できるし、電気がなければ役をなさないのですから実際0パーセントになっても問題はないのです。
でも、暗闇で早々に眠るしかないのなら、町の避難所での充電サービスを受けて来ようと思い立ったのです。

 避難所となっている保健センターに入って明るい灯りをみたらホッとしました。
避難所といっても実際に利用していたのは生活に不安のある三名ほど。
充電サービスも数名の方が利用していました。
普段行かない場所での異質な時間。
非日常感が募ります。
 外は真っ暗。
停電はまだ数日続くのだろうと思えます。そんな風にしか思えなくなっていました。
明日はお義母さん誘って、隣の地区にある「チューリップの湯」に入りにいこうかな。
そんな時やってきたのが、久々の顔を合わせる顔見知り。おしゃべりに花が咲きました。
そんなこんなの一時間がたち、真っ暗な道を自宅に戻ってきました。

 車から家の中まで、懐中電灯の灯りを頼りに歩き、懐中電灯かざしてトイレへ。
いつもの癖で、便座が開くのを一瞬待って「ああ」と気づく。
冷たい便座・・・・夏で良かったと改めて思いました。
畳んであった布団を伸ばし、足を伸ばす。

来た

 ほどなくブーンという音。
電気がきたのです。唐突に。
灯りもつきました。
喜ぶべきです。
バーベキューをしていた近所の子どもたちが歓声をあげました。街灯が点ったからです。

 でも、非日常の興奮に身をおいていた私はあれ、ちょっと待ってという気分でした。
あれ?終わるのか。あまりに唐突に戻ってきた日常。
充電しに行く必要はなかったのだな。
「チューリップの湯」行く理由もなくなっちゃったな。
学校むざむざ休みにしなくても良かったな・・・それもこれも、電気が来たから思うこと。
まあ、寝るか。


 トースターで、パンを、焼きました。
心おきなくネットものぞける。ブログ書くかなあと思ったのもつかの間、Wi-Fiがネットにつなからないのです。
光回線はまだ復旧せず。後遺症は残っていたのでした。
この日の午後になってようやくつながりました。


 結局丸2日には満たない停電でしたが、先々のことを心配したからか、長い時間だったように思います。
 被災地はまだまだこれからです。
来週には気温もぐっと下がる様子。

 少々二次災害に巻き込まれただけでたっぶり非日常を味わった私でした。

 甥っ子たち若い旅行者は明日本州に帰るそうです。たっぷりの日程で北海道を回る予定だったようですが、まだまだこれから先余震の影響を受けないとも限りません。残念だったけどまたチャンスはあるよ。
番狂わせの旅行でしたが、彼らにとっても印象に残る出来事となったことでしょう。

  ❇️  ❇️  ❇️  ❇️  ❇️  ❇️

 復旧はこれから進んでゆくのでしょうが、電気や水や、お金で生活が元通りになる方ばかりではないはずです。
 元に戻すことのできない深い痛手を負った方たちの直接的な力になることはできませんが、少しずつ回復し、前を向いてゆけますよう祈っております。

追記
 最後に残った後遺症が物流です。
このブログを綴った日曜日、スーパーにもコンビニにもまだ品物は入荷していないようです。
これは週明けからボチボチのようですね。

停電という非日常 ①

        

全道って!

 地震に伴う停電に気づいたのは6日、木曜日の朝でした。
震源地からは遠い我が家は揺れを感知できず、夜中にファックスがブーンとうなり、ワンコが吠えたものの、それと災害を結びつけることもなくそのままおねんね。
朝夫に、「夜ファックス入ったよ。」などと言う始末でした。
停電だ。」と夫。
携帯を開くと大規模地震のニュースが入っておりました。ええ?それでここまでが停電?
停電は、全道域に及んでいるということです。
ビックリしました。
北海道全部・・・・

 道内で最大級の発電所の停止によって需要と供給のバランスが損なわれ周波数が乱れた結果とのこと。
大きな発電所に広域が頼っていたことがこのような大規模停電を招いたと考えてよいのでしょうか?
道内全世帯295万戸が電気を絶たれてしまったのです。
北海道・・・・九州地方と中部地方と四国三県分(徳島を除いた三県)を合わせた広さだそうです。その土地全域の停電となったのです。

ラジオは
「復旧の見込みはわからない、損傷した苫東厚真発電所の復旧には少なくとも一週間を要する」
と伝えます。
この情報は具体的に何を教えているのか?
この停電はいつまで続くのか?
長いとなれば
冷蔵庫の中身は?冷凍庫はいつまで冷気を保つのか?ああ、前日珍しく夜の洗濯したのは良かったわあ・・・とっさにそんなことを考えました。

 この日の朝は食パンをガスであぶって食べました。
 この朝には早くも食品や電池などが、コンビニの棚から姿を消しつつありました。
臨時休校
 小学校は停電に加え、水も出ないということで、臨時休校となりました。
(ライン電話がこのときは使えて連絡を受けました)
支援員として働く私は、児童が登校しないときは自動的に休みとなります。出勤の義務はないのです。それでも職場に向かいました。
歩いて5分というほどの近い職場です。
連絡を確かに受けた報告をして、何か手伝うことがあるかたずねてみようと思ったのです。
頼まれることが何もないにしても、気がかりがありました。
教室で飼っているキアゲハ幼虫とカタツムリたちのエサの心配です。

そろそろ蛹化しそうなものの、エサが渇れてしまってはかわいそう。
黄緑色と黒の鮮やかな縞模様の幼虫はまだ蛹にはなっておらず、エサを補充してやりました。

 職員室で話をかわした担任は、携帯の充電残量が無くなりそうたと苦笑しておりました。
電気はいつでもそばにある・・・・その暮らしを疑うことはありませんからね。

 やることは何もないとのことで、学校をあとにしました。帰り道でご近所さんと立ち話。
瞬く間に数人寄り集まってきました。何か話さずにはおられません。

ネットがつながらない

そうこうするうちにネットも繋がりづらくなりました。そのうち携帯を開くとすぐに通信サービスはありませんの表示が出るようになりました。
(これに関してはドコモがいくらか強かったようですね。)

️拡散希望️
NTTの方からの情報です。
只今道内全域で停電しているため電波塔にも電気がいかない状況なので携帯電話もあと4時間程度したら使えなくなる可能性がでてきたそうです。
なるべく1人で行動せず家族や仲間、友人などと共に複数で安全な場所に避難して下さい。

こんな情報が出ていたようですね。

大変だけど大変じゃない

 幸い水は出る我が家、土地の傾斜を利用して水が運ばれる仕組みなので大丈夫なのだとか。
このような単純なシステムがなかなか強者だったりするのかなと思った次第です。

 プロパンガスなので、ガスで調理もできます。
オール電化や、IH調理器の家庭は大変なことでしょう・・・娘よ・・・息子よ・・・どうしている?
カセットコンロでの調理で凌ぐしかありません。‥ボンベの替えあるかい?
不謹慎のようですが、炭おこしてバーベキューとか。
実際そうしている家庭もありました。
子どもたちは夏休み再来といった気分で恵みの休日を楽しんでいる風情でした。
台風一過で北海道としては暑い日でしたしね。
そうです。この停電が冬だったら過酷さ心細さは10倍増しだったことでしょう。
(それにしても台風による甚大な被害の映像を見たのはつい数日前ではありませんか!)

先に書いたように、我が家はガスも無事。
何より直接的な被害に見舞われたわけではないのです。
電気さえ通れば元通りの生活が約束されているのです。
全然大変じゃない。そうですよね。
ああ、被災地は・・・・・
酪農家は?漁業者は?病院は!病人は!
食品を扱うお店やさんは?

そう、我が家など全然大変じゃあないのです。
 唯一の情報源となったラジオの音声が流れます。
お昼は鍋でご飯を炊きました。ほどよいおこげが美味しかった。

 全然大変しゃないながらもひしひしと感じる非日常感。
そんな気分に誘われてか やおら引き出しの整理を始める気になりました。
出るわ出るわ不用の説明書やら、領収書やら、それらを処分してよい気持ちになりました。
引き出し一つが空っぽになりました。

思わぬお客

 本州に住む甥っ子が、友だちと一緒に全道旅行に出てきていて何と、地震発生時には札幌のネットカフェにいたのでした。
しこたま飲んで寝た直後に地震発生。非常用電源が切れた早朝にカフェを出されてしまったのです。彼らは日本海側を回る予定を変更し、北海道の真ん中を、レンタカーに乗ってここオホーツク海沿いのこの町までやってきました。
じいちゃんばあちゃんちに一旦身を寄せることにしたのです。
信号のつかない道をしばらく走り、無料区間の始まる比布(びっぷ)からは高速に乗りぶっ飛ばして来たそうです。
やって来たところで電気はつかない、ネットは繋がらないなのですが、給油制限もかかっている北海道の道をやみくもに走るのは無謀ですから、懸命な判断だったと思います。
 解けてしまえばはどうせ台無しになる買い置きの冷凍品のエビフライを揚げて実家に届けました。(こちらも歩いて4分ほど)
我が家も暗い食卓で晩御飯。
停電を肌で実感する夜がやってきました。
懐中電灯を使ってまで読書する気にもなれず夜7時には、布団に入り眠ってしまった私でした。

深夜目が覚めたついでに星空を眺めました。
素晴らしかった。
北海道がすっぽり暗闇ですものね。
くっきりと描いたような星ぼしの輝きでした。

言い訳ブログ

混沌テーブル


週末にはブログをアップして、せめて1週間にひと記事を更新していきたいと思っております。
今週も・・・・・
となるとこんな内容にならざるを得ず。100パーセント個人的な内容であることを先にお断り。


 夏休み明け2週間を過ぎた我が職場です。
私は近所の小学校で支援員として働いております。
子どもたちが、休みの期間に頑張って取り組んだ作品や自由研究に、参加賞としてのメダルをプレゼントしてやりたい担任から、仕事の発注を受けました。
折り紙のメダル作りです。
 もちろん、思いつきで急に言われたわけではないのですよ。
でも、合間合間にのんびりこしらえていたら、作業のピークと、娘と孫が来るタイミングが重なってしまいました。

「バアバ!!」

 娘と孫・・・・お盆も来たではないか?と思われるかもしれませんが、この度は娘はこちらで1日バイトが入ってやって来たのです。
同級生の酪農農場の跡取り息子氏に頼まれて、彼女は牧場ガールのモデルを勤めることになったのです。
ガールったって一児の母ですから、移動の大変さを考慮してその1日(半日)仕事のために、父親が片道3時間の道を迎えにゆきました。
それが水曜日
母親(わたくし)は一日年休を取りました。
それが木曜日・・・・・週明けには子どもたちに渡してやりたいということなので、折り紙メダルは内職仕事として我が家てやっつけなければ間に合わないことはもう確定的でした。

 とはいえ、孫がいる木曜金曜ははなからやる気無し。
孫ちゃんは始終「バアバ!!あそぼ」とせがんでくるし、
折り紙広げて心おきなく作業するゆとりなどないことは分かりきっておりました。

 さてさて、その孫ですが、実は胃腸炎のウイルスを体内に忍ばせてやってきていたのです。
木曜日の夜、寝ついたばかりの孫の咳が聞こえたと思ったら
バアバ!!と娘の絶叫。
とっさに抱き上げた娘のダボダボTシャツの隙間に孫はゲボを吐き出し、その液体は娘のパイの隙間をつたい、パンツにまで・・・・
「バアバ!!頼む‼️」
娘は孫を私に預け風呂場に駆け込みました。

孫はキョトン顔。始めて経験する事態に呆然としておりました。その手や顔を洗ってやり、汚れたタオルやシーツをすすぎ洗濯機へ。
大騒動となりました。

金曜日、私は勤務。娘たちはお留守番。
元気はないものの、その日の嘔吐は無しだったとのこと。
一安心。
メダル作りの材料一式は、いよいよ週末のノルマとして持ち帰りました。



 メダル作りは土日のノルマとなりました・・・・・
とはいえ土曜日は娘と孫を送って行く日。
服やら持ち帰らせる食材やら、日用雑貨やらを積んで片道3時間の道を往復する土曜日なのです。
メダル作りは帰宅後土曜日の夕方から日曜日のノルマとならざるを得ませんね。

土曜日朝、お腹を空かせた孫は早起きしました。
簡単な朝ごはんを食べたらまた、うとうと。
本調子ではなさそうでした。居間のソファーで一眠り・・・・
モゾモゾと、起き出したとたん
・・・・・ご想像つきますでしょうか?



そう。その通り。昨日落ち着いていたのでもう吐きもどすことはないと思っていたのですが・・・・

ああ、あっという間に衣類、座布団カバー、タオルの洗濯物が・・・・

 帰路、車での嘔吐に身構えたものの、孫は安らかにチャイルドシートでおねんね。
無事二人をアパートに届けることができました。
荷物をほどき、部屋や冷蔵庫が落ち着いたのを見届けて、ようやく帰路につきました。

可愛い孫は何とも淋しい表情で、私たちに手を振り、私はその姿を心に残しました。

あってよかった公衆電話

 アパートから高速入り口までは10分程度、さあ、走って我が家を目指すのです。

 しばらくすると自分の携帯が手さげの中で震え、目を通そうと手を差し入れたとき、私の手にもうひとつ固いものが触れました。
ご想像つきますでしようか?


 すぐにに夫の携帯も鳴りました。
公衆電話からでした。
ひと区間18キロの次の降り口で高速道路から降りることができたのは幸いだといえるのでしょうか?
降りてすぐUターン。今来た道を戻ります。先ほど見た景色をなぞりながら・・・
18キロをひた走り、再び高速を降りてアパートまで。駐車場に先ほど切ない別れをかわした娘と孫が待っていました。
平謝りの娘。
お昼を食べるため回転寿司に寄ったとき、手持ちの荷物を最小限にしようと、私の手提げに自分の携帯を預け、そのまま忘れてしまったようです。

 孫の体調を考え、お弁当を買って部屋で食べる予定だったはずが、ホットモットが店内改装の閉店だったため仕方なく入ったお店でした。
それにしても、電話番号を紙にメモすることのない今のご時世、公衆電話も少なくなった今のご時世、タブレットに電話番号が記録されていたことと、近所のコンビニ前に公衆電話があったことは幸いでした。

下の道を

 無味乾燥な高速道路をまたもや、走る気持ちが萎えてしまった夫・・・下の道をしばらく走って戻ることにしました。f:id:kyokoippoppo:20180902163246j:plain:w400:left

 道の駅覗いたり、コーヒー飲んだりしながらしばらく一般道路を走り、
無料区間の始まる
比布」(ぴっぷ)から再び高速に乗り、北を目指しました。
 家に着いたのは7時過ぎ。日も短くなったため辺りは真っ暗でした。
暗闇に、朝大急ぎで干した洗濯物が湿気を吸ってひんやりと翻っていました。

折り紙メダル

 出来合い惣菜の晩御飯を済ませ、ようやくメダル作り開始。

 日曜日の朝のテーブルが冒頭の写真です。まだ全部出来上がっておりません。
孫のオモチャ、アルコール除菌スプレーなども乗っており、ここ数日の出来事を偲ばせておりますね。
 
 *   *   *   *   *
 ご安心下さい。
午後にはこんなどうでもいいブログを綴る余裕ができました。ハイ!