竜宮街道・・サロマ湖学習をきっかけに

こっちが海でこっちが湖

 私は幼少期を横浜で過ごしました。
町内に北海道から越してきた家族がいたのですが、母は、そのことをまるで一大事のように話しました。
「京子!Yちゃんちはほっかいどうから越してきたんだよ。オシッコも凍るほど寒いところだよ。」
母にとってその土地は、未知なる異国でした。
その時から多少年月を経たとしても、母の北海道に対するイメージはほとんど更新されませんでした。

 その土地へ娘は嫁ぐと言いだしたわけです。
心中穏やかではなかったことでしょう。
極寒の土地・・・しかも北海道も果ての果て、オホーツク海の海っぷち。
なんたることか!
どんな生活の苦労が待っているか!
と娘の暮らしの心配をしたことでしょう。

 その未知なる土地へ、母たちがやって来たのは結婚式のときでした。
公民館での、夫の職場互助会の企画による結婚式でした。その後私たちは旅行へ・・・。
義父母は内地からのお客さんをもてなすべく、車で観光地を巡ってくれました。
季節はちょうど今頃、新緑と初夏の光が輝く季節でした。
旅を終えた母は、あとから私にこうもらしました。

「何がきれいって、こっちが海でこっちが湖って言われた場所が一番きれいだったよ。すごい景色だったよ。」
母がいちばん感動したのは、この地のサロマ湖畔だったのでした。

是竜宮に至るかと・・・・

 そう、その場所こそ竜宮台
竜宮の名称の由来は以下の通り。(wikipediaからの引用です。)

龍宮街道は湧別町の市街地から緑地等管理中央センター・レイクパレス(公共宿)や三里浜キャンプ場へと続いている一般道道であり約12キロメートル (km) ある観光ルートとなっている[1]。1921年(大正10年)に湧別町登栄床(三里浜)の海道に訪れた歌人である大町桂月は、オホーツク海サロマ湖の景観に魅せられ、この地へつながる砂州を「龍宮へ続く道」と感銘したことから名付けられた[1]。


    奇花異草接天空    馬跡輪痕川字通
    百里狭洲波浪裡    恍然疑是到龍宮
  




<読み下し文>
 
奇花異草天空に接す      馬跡輪痕川の字に通る

きか いそう 天空にせっす
ばせき りんこん 川の字にとおる

百里の狭洲波浪の裡   
恍然として疑う是龍宮に到るかと

百里のきょうす はろうのうち
恍然として疑う これ竜宮にいたるかと

大町桂月については以下の通り。(コトバンクの美術人名辞典より)

詩人・随筆家・評論家。高知県生。名は芳衛。「文芸倶楽部」「太陽」などに随筆を書き美文家として知られた。晩年は旅を愛し、遠く朝鮮・満州に赴き、和漢混在の独特な美文で書かれた紀行文は広く読まれた。大正14年(1925)歿、57才。

その頃のこの辺りは人も住まず、人工の建造物なども無かったことでしょう。

まさしく”竜宮に至るか”と思われる風情だったでしょうね。
それでも、馬や荷車は行き来していた様子。
どんな人たちによる、どんな暮らしだったのでしょうか?

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ここが好き


 母の心配をよそに、私はここで以前よりはるかに健康に暮らすことになります。(ほとんど風邪をひかなくなったのですよ。)
苦労がなかったとはいいません。安定した家庭を願い、多くの悪戦苦闘をしてきました。
ただ、ここの風土で苦しんだということはありません。
もちろん温暖な神奈川を懐かしむ気持ちもありますよ。
でも私が好きな土地は断然「ここ」なのです。

   *   *   *

 せっかくですので、探し当てたこの方のブログも貼らせていただきました。
サロマ湖は、一時小学校の国語教材として取り上げられていたのですね。知りませんでした。
教育出版の5年生教科書で、S49年~H7年まで『サロマ湖の変化』というタイトルで掲載されていたようです。
ameblo.jp
f:id:kyokoippoppo:20190607210324j:plain:w200:leftブログでふれられている堤防に描かれた浦島太郎の絵は今なく、このようなレリーフが並んでおります。カラーの絵も昭和レトロ感が漂っていて良かったのですがね。