秋晴れの中
勤務する小学校の5年生は、総合で「湧別川」について学んでいます。
先月は河原に行き、水質や水生昆虫を調べました。
kyokoippoppo.hatenablog.com
本日は、上流から流れてくる黒曜石について詳しく知るために、遠軽町白滝のジオパークを見学してきました。
私にとっては、初めて訪れる場所!
大変楽しみな今日の日だったのです。
「ジオパーク」の説明は、こちら↓
ジオパークとは、「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」とを組み合わせた言葉で、「大地の公園」を意味し、地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができる場所をいいます。
大地(ジオ)の上に広がる、動植物や生態系(エコ)の中で、私たち人(ヒト)は生活し、文化や産業などを築き、歴史を育んでいます。ジオパークでは、これらの「ジオ」「エコ」「ヒト」の3つの要素のつながりを楽しく知ることができます。
(日本ジオパークネットワークより)
町営バスに乗り、海辺の町「湧別」から内陸へ、いざ出発!!
遠軽の「道の駅」の脇から、高速道路(高規格道路)を南下します。
子どもたちの相手もせず、ぼーっと景色を見ながらのドライブ!!いい気分!!
内陸へ向かうほど、紅葉の色付きも進んでいるように感じました。
ジオパーク
到着!!
おお!!!柱も黒曜石のモザイクです。
館内の床には、大きな現在地の地図が描かれておりました。
この地で200万年前頃に大噴火が起き、その際流れ出た溶岩が固まり、大きな露頭となって残っているのです。
白滝のものは、日本最大級の規模を誇るそうです。
岩盤のそばに無数にある黒曜石の原石・・。
それらは大昔の人々の暮らしの道具となって、狩猟生活の移動に伴ってあちらこちらに運ばれたそうです。
ガラス質なので、刃物として使われたのです。
高規格道路建設に先立って行われた発掘調査は、1995年~2008年の12年間で、その間に出てきた出土遺物は7,677,467点で、総重量は12トンであったということ。
これには驚きました。
(写真は館内の展示物)
黒曜石は、そばを流れる湧別川によって運ばれ、下流の河原やオホーツク海の海岸にやってきました。
流れついた石は角がとれ、削られた表面は白っぽくなっております。
(写真は我が家の黒曜石!!)
このあたりでは、普通に見られる珍しくもない石なのですが、日本全国どこにでも転がっているわけではないのです。
見学の後は、黒曜石を削り模様を付け、ネックレス作りをしました。
彫るデザインは、たくさんのサンプルの
中からえらぶことができます。
私は南京錠の模様にしましたが、楓とか、十字架とか、雪の結晶とかの方が良かったかな!!
もっと丁寧な記事をと思いますが、まだ週の真ん中。
おでかけしましたよ~気分だけで仕上げた記事となりました。
詳しくお知りになりたい方は、こちらをのぞいて下さいませ!!↓
kai-hokkaido.com
あっ!!
そうそう!!
白滝といえば合気道の開祖植芝盛平氏が有名です。
(写真はジオパーク館内にあった肖像画です。)
1912年(明治45年/大正元年)29歳。政府の北海道開拓団体募集に応じ、農家・漁民の次三男を主とする54戸80余名の「紀州団体」長として紋別郡上湧別村白滝原野(のち遠軽村→遠軽町→白滝村→遠軽町)に移住する。原生林の伐木などの重労働、夏季の暴風雨、冬季の酷寒・豪雪、3年連続の凶作などのため難儀を極める。盛平は率先して伐木に取り組む傍ら、役所への陳情嘆願に奔走、またハッカ栽培・製材事業・馬産酪農を奨励、入植3年目以降は開拓民の生活も好転、小学校建設、商店街・住宅の整備を図り、村は活況を呈するようになる。
伐木作業への従事により盛平の豪力ぶりはますます強靭さを増した。食料買出しの帰り3人の強盗に遭い雪中に叩き込んだ、坂道を転落した馬車を馬ごと上まで押し上げたなどの逸話が残る。また“監獄部屋”と呼ばれる劣悪な建設現場から逃げ出した工夫を義侠心から匿い、現場を仕切るヤクザと話を付けて助けてやったことが噂となり、盛平を頼って逃げてくる工夫が続出、それらの全てを助けたという。これが地元新聞に取りあげられ、盛平は「白滝王」と称され周囲の尊敬を集めた。
(Wikipediaより)