雑多な紙たち
雑多な紙たち・・・・・切り抜き保存したまま忘れ去られているものが多くあります。
また、これらを整理しようと広げるも、捨てられずにしまい込むこと何度目か?というそんな紙片たちも多くあります。
一気に捨てられない私であるために、折々に手に取られ、目に触れられることとなるそれら。
その都度私の心に引っかかり、
その都度それらに慰められ、
その都度それみて頷いて・・・・そして捨てられないというわけです。
そのような執着があるならば、それらをここにてご披露し、ここにて保存するのはどうだろう。
我が子たちの思い出整理をしたように。
当然、全てのものをもれなくとは参りません。
時々、気の向くままにその作業をやってゆこう!そう思い立ちました。
鷲田清一は哲学者。
私は『ちぐはぐな身体』という一冊に馴染みがあります。
kyokoippoppo.hatenablog.com
エッセイの一部を写真に残しました。
フランクルは言います。
のフランクルは、ナチス時代、家族と私物の全てを取り上げられ強制収容所に送られた、ユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルです。
彼が残した書物『夜と霧』(kyokoは未読)の中で語られるエピソードだとのこと。
名著14 フランクル『夜と霧』:100分 de 名著
そして鷲田氏も、
希望を小刻みにすること。私はこれがじつは人が幸福になるための算段としていちばんいいのではないかと思っています。
と述べています。
幸福への問いは、いまの自分にそれらしきものがないから、つまり満ち足りていないがために立ってくるものである・・・
そのように鷲田氏は指摘します。
幸福への問いには、言ってみれば不幸の影が射しているのです。
なるほど。
幸不幸は分かち難く結びついており、人はそこを行ったり来たりしながら生きて行く。
不幸の影そのものを消すことはできないのだから、
小さな喜びを大切にして不幸の影を薄くすれば良い。
そのように鷲田氏説いておられるのでしょう。
切り取ったこの1ページの片隅に2019年11月のメモが残されています。
安心を手に入れたいと切に願う私の心に響き、日付のメモまで残してファイルにしまいこんだのでしょう。
記事を切り取った後、私はそれを埋もれさせたまま時を過ごしていました。
部屋の片づけに際して出てきたこの1ページに再び目を通し、ここに記事として残し、ようやくこの1枚は雑紙処分と相成りました。