雪積もる

春の雪

 昨日は低気圧の影響でどっさり雪が降りました。
日本海側ではなく太平洋側にやってきた風雪。
これも春ならではの現象とみてよいのでしょうか?
この低気圧の影響でオホーツク沿岸の我が地も雪が積もりました。

 ここ数日、気温の高い日が続いており、平年より少なかった雪もどんどんしぼみ、水となり姿を消しておりました。
道路はもはや夏道路と変わらず。
風は春の気配を濃厚に伝え、おお!白鳥たちの鳴き交わす声まで風に乗ってやってきた。
このあたりは、シベリアへ帰る白鳥たちの中継地点となっているのです。

それなのに 本州から飛んできて羽を休めた鳥たちに「気が早いぞ!」と諫めるように、どっさりと積もった雪でした。
毎年そうなのです。
春の気配は姿を見せたり隠れたりするのです。
ようやく咲いたクロッカスやチューリップを、水気を含んだ重たい雪が覆い隠してしまうことだって珍しくありません。
花の一つさえ咲いていないこの時期の雪なら、やっぱりね・・という感じで受け入れるしかありません。

いうことをきく雪

f:id:kyokoippoppo:20190313061008j:plain:w320:left玄関を開けると積もっている積もっている。
水気をふくんだ雪を踏み固めてしまいたくなかったので、まず数段の階段の雪をよけました。
ずずずず・・・ずず
そうしておいて、私は義母が一人で住む実家に向かいました。徒歩数分です。
毛糸の帽子をかぶった義母さんが雪と格闘しておりました。
「あんた・・重いわ。」
「いやあ、今日のは重いよ。」
何度も繰り返すかあさん。
そして「あんたも、北海道に来たばっかりにこんなことしなくしゃならないね。」と・・・・。
「でもさ。ほかにいたら水害とかさ、地震とかで苦しんだかもしれないでしょ。」と私。
「雪はさ、重くてもさ、いうこときくじゃない。
そうです。屋根から落ちる雪もあれば、雪山を雪崩落ちてくる雪もあるけれど、大抵の雪は積もって待っている。
私はいつも思うのです。
水は違うと・・・・。
水は隙間という隙間から侵入します。
土嚢を積んでもわずかな隙間から侵入して制御不能です。
降っては、こちらがどかすまで存在する雪だから、私たちは除雪という作業に向かわなければなりませんが、裏を返せば、除雪できるということでもあるのです。

出勤時間まで間がありましたので実家でちょいと一休みさせてもらいました。
お茶もおかしもいらないよという私にかあさんは、パチンコ景品の洗剤と油を持たせてくれました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

ありがとう。助かります。
自分の家は夫にまかせて出勤しました。

侵入不可

 町の除雪が追いついていないらしく、職員駐車場の入り口には優先の主要道路の除雪で寄せた雪が小山のように積み上がっており、侵入できませんでした。
こんなことは初めてです。
仕方なくどの車も、学校正面玄関を回り、校舎回りの敷地に駐車しました。
二時間目終了後ようやく駐車場が除雪されました。

 寄せられた巨大な雪山が出現し、校庭では、子供たちは水気を含んだ真新しい雪の上ではしゃぎまわっておりました。
重機はうなりをあげながらも、雪を寄せられる。
でも水は・・・・・重機や船や車の重力を奪い陸地に押し寄せたのだったなあ。
私は8年前の津波を思い、被害の地を春の雪がしきりに落ちていたことを思い出しておりました。
そしてまた、このことを少しずつ忘れて暮らすであろう自分を自覚するのです。

震災後8年

星空

 白状してしまえば、私の普段の生活の中で、8年前の震災は風化しております。
この頃の報道で、「ああ、またこの時期が巡ってきたのだな。」と感じる・・・それが実状です。

 先日は仙台プラネタリウムの次のような試みについて知りました。
www.sendai-astro.jp

 家を無くし肉親を亡くした多くの人たちが、夜空を見上げて涙し、祈りながら身に起きた運命と対峙していたそうなのです。
今回のブログではその時の天体の様相を、占星術の視点ではどうみることができるのか?
松村潔氏の著作である『ディグリー占星術』を参考に綴ります。

参考にと言いながら、ほとんど抜き書き状態になることでしょう。
また、細部の説明は省かざるを得ませんので、伝えきれないところや、私の理解不足のため的確な言葉を選べていない箇所があるかもしれません。
ご了承の上読み進めていただきたく思います。引用部分はすべて『ディグリー占星術』からです。

12サイン 10天体

 西洋占星術は、12サイン(~座)に配置された天体の位置(一般的に月から冥王星までの10天体)からそのメッセージを読みときます。
しかし、地球の衛星であり約28日でサインを一回りする月と、サイン一回りに二百数十年かかる冥王星では、読み取れるデータの深さや意味は違ってきます。

冥王星・・・サイン一回り(公転周期)に247年を要する。
最も深いデータ領域を掘り出す。太陽系の外側内側の境界線の弁のような働きをしている。
個人情報はほとんど入らない。
世代の動き、時代の変化などに関わる。

冥王星蠍座の支配星で、蠍座は水のサインであり、また深い水の底のような意味も含んでいます。
死、異界、異種知性、かっぱ、水。これらの内容は、冥王星がトレースする12サインのディスクを読み取ると、たくさんの記録があります。

海王星・・・海王星の公転周期は冥王星の3分の2の165年。
魚座の支配星である。
魚座は水・柔軟サインで、雲や霧のように希薄で、境界のあやふやなものを表す。境界を持たないゆえに、まだ生まれていない可能性を引き出すし、肉体という固まったものに留まらず、他の時間や空間へと解放されてゆく。

冥王星は異界との扉。そしてその周辺で、輪郭のあいまいな周辺のにじみ、これが海王星です。

海王星も、肉体という形に納まっている人間が、意識を持って踏み込むのが難しい天体といえるでしょう。

天王星・・・・・公転周期84年。ここでようやく人の寿命に近づきました。

「個人として体験し、見えてくる世界の印象と意義」が作り出されます。

しかし、自分の人生を俯瞰するに等しいサイクルですので、我々が普段の生活の途上でこの天体のメッセージを意識するのはやはり難しいとのこと。

2011年3月11日の天王星

 震災が起きた日、天王星魚座29.95度にありました。(一つのサインは30度)
サビアンは「巨大な石の顔」
翌12日午前9時50分に春分点牡羊座0度)に達しました。
占星術では牡羊座0度の春分点は、大きな区切り、次のサイクルへ入ってゆく扉ととらえます。
8年前、3月11日の天王星は、まさしくこの地点の際にあったのです。

天王星意識に自分の重心を合わせていた人は、自分の魂のかたちが完成し、後はそれを違う場所に飛ばしていくだけです。

新たな場所にいくための扉が春分点にあり、開かれたその場所からこれらの魂は飛んでいったと松村氏は解釈しております。
これらの魂とは、自分のエッセンスや魂のありようが、”石の顔”として結晶化した人、次なる次元へ入る準備をした人ということです。
震災時に亡くなられた方の肉体こそは傷つき、津波にのまれたわけですが、魂の視点でみれば、開いた扉から飛んで行ったと解釈できるのかもしれません。
行き先は天王星以遠の天体の象徴するところ。
地球上の人々の生活からか遥かに遠い海王星冥王星にとって、この事象は些事であり意味を持ちません。
この時
海王星水瓶座29.23度にありました。サビアンは
「アーダスの咲いている野原」
冥王星山羊座8度
「幸せそうに歌う家の中の鳥」
開いた春分点の扉から、飛んでいった魂は、天王星以遠のその天体の象徴するところへと向かったというのです。

飛び出した魂の結晶体を海王星は、(水瓶座が意味するそれぞれの差異を越えてつながる)ネットワークの中に絡めとり、冥王星は大きな家の中に回帰してきた鳥として歓迎したのです。

( )内はkyokoによる

土星・・・・公転周期29年
この周期をおおまかに3倍すると天王星の公転周期となる。

つまり土星意識は、「天王星という、人生全体を統括する意図を把握するだけの力はないが、その指示の通りに動いていく手足となる」ということです。

 土星天王星の指示のもと、定期的に殻を壊し作り変えを余儀なくされます,
人の生き様との接点を持ちうる天王星ですが、その公転周期は人の一生に匹敵する年月です。
人の通常の意識では、自分の一生を俯瞰することは難しいし、天王星の作用を意識的に知ることもやはり難しいのです。
保守的な社会の中で生きる人間にとって、リアルにキャッチてきるのは土星の意識となります。

2011年 3月11日の土星

 東日本大震災の時の土星の位置は、天秤座の15.63なので、天秤座16度‘’A boat landing washed away‘’=「流されてしまった船着き場」になります。
16という数字はタロットカードの塔のカードと似て、崩壊現象を表します。これは天秤座の中で最も傷つく度数で、船が戻るべき陸地が崩れてしまい、海の水に飲み込まれてしまうイメージを示しています。ということは津波の情報を伝えているのは、土星のディスクだということです。

(大文字はkyokoによる)
 これを読んだとき、実際の出来事とこの日のサビアンの一致に驚きました。
しかし、土星がここに来る度に必ずしもどこかで津波が起きるわけではないでしょう。
そんなパターンがあるのなら、むしろもう少し的確に災害を予測できるというもの。
そうは単純なことではなさそうです。
 約29年に一度、ここを通過する土星が何をもたらすかはその時の、特に土星以遠の星との位置関係で変わってくるのでしょう。  

 土星は、船着き場を流し、そこで日々の営みをしていた人の命を奪い、人生を狂わせる事象を生みましたが、より大きな世の中の流れの中でその事象をとらえると、多くの人が人がコントロールすることができない自然の脅威を知る出来事となりました。
また自分たちが必要とするエネルギーをどう調達するのか考えるきっかけにもなりました。
それはあの日、春分点を超える際にいた天王星のメッセージだったと理解して良いのでしょうか?

 震災の日、またそれに続く夜、星を見上げた人々はもちろん、星の並びを解釈しようとたわけではありません。
しかし、自分の置かれた状況を星に問うた人は多かったことでしょう。
失った人を夜空の星の中に探そうとした人も多かったことでしょう。
私自身は占星術をしっかりと解釈することはできませんし、理解も未熟です。
それでも、星のメッセージというものがあるのなら、それに耳を傾けていきたいと思うのです。


 その天王星、去る3月6日に次なるサインに移行しました。
牡羊座から牡牛座へと移ったのです。
世の中のトーンが変わってくるかもしれません。

次の過去記事は
昨年の3・11に公開したものです。
長い記事の後の貼りつけで恐縮ですが、覗いていただけたら嬉しいです。
kyokoippoppo.hatenablog.com
こちらはコミック震災ニートです。
kyokoippoppo.hatenablog.com

京急線 駅名変更を知って

 金曜日の一本の電話から思わぬ展開になった我がブログです。
kyokoippoppo.hatenablog.com

昔の写真を貼るべく検索していたら、思わぬニュースに出会いました。
京急線の駅名変更のニュースです。
しかもこれが発表されたのは今年の1月25日ということで、そこそこタイムリーなニュースといえましょう。
これに出会わなければ私は、駅名を聞いただけて懐かしさが喚起される「花月園」が来年にはなくなってしまうことも知らずに過ごしていたことでしょう。
もちろん、知って暮らすも、知らずに暮らすも我が暮らしに何ら支障もなければ、変化もないわけですが、このニュースをキャッチでき、これをブログに残せることにほんのり安堵感を感じております。

 この度の記事は、”タイムトラベルという名のもとに行ったネットトラベル”で見つけた記事の貼り付けです。
それだけのものです。
あしからず。
とにかく、地名や駅名・・・つまり名称がむやみに変えられることに私は賛成をいたしません。
 
 「仲木戸」という駅名は、横浜線京浜東北線の「東神奈川駅」とほぼ同位置にあることから「京急東神奈川駅」に変わる予定だそうて、これに関しては肯定する意見が多いようです。
しかしなあ、うーん・・・。
なかきど・・・・良い響きだ。
そしていかにも土地の歴史を含んでいると感じる名称ではないですか?
変えないて欲しいな。
私の生活となんらつながりはないし、影響もないけれど変えないで欲しいな。
部外者のノスタルジーの思いなどお呼びでないことは重々承知で、そう告げておきたい私です。

ameblo.jp
microstory.hatenablog.com
花月園」の検索からは、こんなおしゃれなブログにたどり着きました。
d.hatena.ne.jp
故郷から遠い地に住む方のこの思い、分かるな。
でも私ならこのタオル袋に入れてとっておくタイプだな。
simplesloth12.hatenablog.com

これは全路線図が魅力で貼りつけました。
eevee-zero.hatenablog.com

タイムトラベル

旅の道連れ

 先週は滝川へ出かけたことを記事にしました。
個人的な、行った見た食べたなどの記事なんて価値あるのかな?という思いを打ち消すように、
「何を躊躇うことある?これは私の日記だよ。自分のことを思いのままに書けばよいじゃないか!」
と自分を励まし、記事を投下したのでした。

すると程なく旅の道連れとなってくれた人がいたことを知るのです。
「ああ、ありがたい。」
スターまで下さった方は、途中下車することなく付き合って下さったということになりますね。
私は恐縮すらするのです。

花月園前駅

今回はタイムトラベルです。
過去の横浜へ、花月園前の京急線へ。
白黒の世界です。
ブログに取りかかる前、"京急花月園前駅” "昔”で検索し、覗いた画像の陰気なムードにちょっと怯んだ私です。
しかし、その写真を見れば見るほど
「ああ、こんなだった。」
と思うのです。
こうなるとますます個人的なノスタルジーの旅となります。
まず私!!行って参ります。

母の実家

このブログを書くきっかけになった出来事は昨日の夕方にありました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 私は幼少時代を横浜で過ごしました。
横浜といっても昭和30~40年頃であり、やや内陸に位置するそこは、雑木林があり、畑が豊富に残る場所でした。
バスに乗ること20分ほどで横浜駅に着くことができたと記憶しております。
母の実家は横浜駅から京急線に乗り「花月園前」という駅で降り、徒歩数分のことろにありました。

当時の横浜駅も薄暗く全体がくすんでいた印象があります。
私鉄である京急線は構内の端の方に改札口があったと思います。

 赤い電車に乗ると、たくさんの並走する線路が見えました。
花月園」というのは大正から昭和にかけて存在した遊園地の名称だったそうで、その遊園地がなくなったあとも「花月園競輪場」が存在したため、この駅名は名実を保っていたのです。
母の実家「つるみの家」へいく日と競輪開催の日が重なると、赤い車両はいつになく混雑しました。
いかにも競輪場へ行くといった風情のおじさんたちで溢れかえりました。

 花月園前で降り、有刺鉄線を頂にのせた灰色の壁沿いに歩くと、立ち飲みの酒場が現れます。
そこにも、いかにも昼間からお酒飲んでいますよという風情のおじさん方が溜まっておりました。
そこからすぐが、「つるみの家」でした。
角地に立つ木造の家で、玄関は土間だったのではなかったかしら?
台所にはかまどの名残がありました。
庭に面した廊下があり、そのとっつきにお便所がありました。
(トイレのイメージではないのです。)
入り口には金物の手水器(ちょうず)がぶら下がっておりました。
私の弟が面白がって何回も手で押して、周りをビチョビチョに濡らしてたと言う話は、昨日昔を懐かしむTちゃんから聞いたばかり。
黒い階段を上がると右は天井の低い納戸となっており、火鉢やら行李やらが置かれておりました。
左はやはり低い天井の和室になっていました。

救急車

 私と弟はこの家に1週間ほどお世話になったことがあります。
母が10歳年下の弟を出産する時でした。
私とすぐ下の弟が夏休みの1週間ほどをここでお世話になったのです。
 ある晩救急車のサイレンがけたたましくなりました。
いとこのTちゃん(昨日電話をくれたTちゃんです)は、「見に行こう!」
と勢いよく立ち上がると、ぐいと私と弟の手をひっつかみ外に駆け出しました。
駅前の電柱に、男が足をだらしなく広げよりかかっておりました。頭からはおびただしい血が流れていました。
血は男の顔を真っ赤に染め、道路の縁に溜まり流れていました。
半分目を開け、口もだらりと開けて呆然としている男の人・・。
今思えば、酔っぱらいがその泥酔ぶりによってケガをしたと想像がつきますが、私はただただ目の前の光景に驚き身体を固くしておりました。
するとTちゃんからあっけらかんとした、笑い声があがりました。
「いやだあ!きょうこちゃんったら震えてる。」
 そう、Tちゃんにとってこれは、怖いことではなく面白い事件でしかなかったのでしょう。
だからサイレンと同時に、いいものを見ようと飛び出して行ったのです。
花月園を思う度、この情景はセットなのです。

風景も駅名も消えて行く

 結婚後、一度そこを訪れましたが、広かった庭には賃貸マンションになっていました。
以前の母屋も立て替えられておりました。
わずかな来訪時間は私にとっては無いようなもので、私にとっての「花月園前」は、はるか昔の面影のまま時を止めているのです。

花月園前」という駅名とのつながりを保っていた花月園競輪場も2010年にはなくなっているそうてす。
そして、今やその駅名までも新しいものに変えようという動きがあるようです。
いや、もう決まってしまったようですね。
栄えある東京オリンピック開催に向け、昭和の下町の匂いの残るこの駅名も、「花月総持寺駅」に変わるようです。

ネット検索すると、競輪場のなくなったこの町は、都心に近い、便利でクリーンな場所へと変貌を遂げていることがわかりました。
もうあの場所は、タイムトラベルしなければ訪れることはできません。
だからこそ、せめて駅名くらい残っていて欲しいものだと思うのです。
ameblo.jp
立憲民主党に関わる方のブログです。
政治色にこだわらず読んでいただけましたらありがたいです。

シルフ、日の丸、花月園前

何を書こうかな?

 滝川へのお出かけブログをアップ後、何を書こうかな?と迷っておりました。
せっかくの週末なので何かしらアップしたく、
「グノーム、ウンディーネで止まっている妖精ネタの続きにしようかな?」と思ったり、
「しばらく離れている教育ネタにチョイと戻って、学校現場の卒業式に関わることを書こうかな?」と思ったりしていました。
でも、なんだか自分の気持ちが乗ってきません。
妖精ネタは、自分との接点を何も持っていないと感じましたし、
卒業式ネタとなるとやはり重い。その覚悟が十分とはいえない私がおりました。
ぼんやりと「どちらに梶を切ろうかなあ。」
と考えていた金曜日の朝でした。

一本の電話

 その日の夕方TELが鳴りました。
全く馴染みの無い声が、私の名を呼びました。
今、時間はありますか?と尋ねてきました。
「私ですけど、どちら様なの?」
相手は
「○○の娘の○○だ。」
と名乗り私は
「ああ、いとこのTちゃんだ。」
と分かりました。
彼女と交流を持っていたのはせいぜい私の小学生時代までで、その後会ったのは11年前の母の葬儀の際でした。
高齢となった伯母と共に通夜葬儀に参列してくれたのです。

その伯母さんが亡くなったということでTELをくれたのです。

f:id:kyokoippoppo:20190309081748j:plain:w200:left 亡くなったのは一月以上も前のことで、通夜葬儀も終わっており、明日が納骨だとのこと。
母親を見送った後の不思議な興奮やら喪失感が彼女の中に色濃くあることが、感じられました。
お母さんありし日の思い出の中に、我が母の存在が大きく、「とにかくきょうこちゃんと話がしたい」という思いに駆られて、電話をしたというのです。
別の叔母さんからうちの電話番号を聞き、かけてきてくれたのです。

「鶴見のねえちゃん」

 彼女の思いはよくわかります。
私も母が亡くなった後は、それまでの日々を何度も思い出し反芻したものです。

 彼女の家は、母の実家でもありました。
伯母さんは九人兄弟の長男の嫁として嫁いできた人だったのです。
母は「鶴見のねえちゃん
と呼んでいました。
母の父親は大変厳しい人で、お酒を飲んでは荒れる人だったようです。
私にとってのじいちゃんにあたる人ですが、親しんだり話したりした記憶はありません。
亡くなったのは私が小学生3年生ころだったでしようか?それはたくさんの花輪が道に並んでいたことを覚えております。
外にどでかい花輪が並ぶ葬儀はいつからか目にしなくなりましたね。
葬儀の形は今後もどんどん変わっていくことでしょう。

 そう、鶴見の伯母さんは、気難しいお舅さんがいて、たくさんの小姑がいる家に嫁いできた人だったのです。
母はよく
「鶴見のねえちゃんは大変だ。」
と言っておりました。
そういうねぎらいの気持ちは伯母さんにも伝わったらしく、Tちゃんは、
「母はちいこばちゃんが一番優しくしてくれたと言っていたんだよ。」
と涙声になって伝えてくるのでした。
ちいこばちゃんという呼び方・・・・・Tiikoobatyanoが2つ並んだところをつなげる呼び方が、何とも下町の本家で育った風情を醸し出していて、私の耳に懐かしくひびきました。
彼女との疎遠だった年月などまるで無かったかのように話をしたのでした。

命日

 我が家では昨年末に夫の父親を亡くしました。12月27日のこと。
kyokoippoppo.hatenablog.com

私の母は11年前の4月28日に亡くなりました。
後に残す夫ことをやたら心配しておりましたが、父は母の死後一年も経たずに、お風呂の中で心筋梗塞により亡くなりました。
絶命していたのは1月27日だと思われますが、命日は遺体発見の28日となりました。みな月命日が近いねと話していたのです。
kyokoippoppo.hatenablog.com

 そしてTちゃんの話によると、
「鶴見のおばちゃん」が亡くなったのも1月28日だとのこと。
さらに、連続ドラマがやっている朝の時間だったというのです。
11年前のその時間、Tちゃんと伯母さんは、はっきりと「ねえちゃあん」と呼ぶ母の声を聞いており、確かに母はその時間に亡くなっていたのです。
「嘘じゃないよ。私たちうわあと鳥肌立ったんだもの。」
母の葬儀の日、火葬場で待つ時間にTちゃんはそう話してくれたのでした。
同じ月命日の同じような時間に伯母さんは老衰により亡くなったのでした。

過去へ

 時間にして二十数分の電話でした。
しかし、それは私のそれ以降の時間を変えました。
日常の場にいながら、私の心は過去へとさまよい出したのです。

空気の精シルフも、日の丸問題もうっちゃって、こんなことを書いています。
母の実家があった京急花月園の界隈を思い出しております。
 
続く・・・先週の私は滝川へ出かけて行きましたが、今週は過去をさまようことにしました。
過去の「花月園前」駅周辺をふらりふらりすることにしました。

小さな旅②・・・・滝川で

 娘と孫が暮らす、滝川に行ってきました。
ムコ殿は中国へ出張中。
一応「お部屋片付け」が名目です。
スマホにて下書きし、家に戻ってからパソコンで書き上げアップしました。

<<3月3日>>ハニーディップ

 娘は人手が足りなくなった職場からのSOSに応えるべく出掛けて行きました。
職場であるラーメン屋さんの書き入れ時間に合わせて、数時間のお仕事でした。
私は孫とお留守番。
帰宅後、
『お雛様パーティーだあ。』
と盛り上げ発信はするものの身体はくたくたの娘、そこへもって晩御飯のリクエストに「うどんがいい」という可愛い孫。
玉うどんと、惣菜コーナーで買った天ぷらに納豆巻という楽チン晩御飯にすることにしました。
f:id:kyokoippoppo:20190306191742j:plain:w180:left 近隣にミスタードーナツが無くて、めったに食べることができない私はドーナツをリクエストしました。とはいえ1つで十分。
・・・となると何をチョイスするかな?
うーん・・・・
久々のドーナツ屋さんで私が選んだのは結局ハニーディップ
主張の少ないこのドーナツに落ち着いたのです。

<<4日>>水路


 孫を保育所に送り届け、片付け開始。
 不用の椅子やら机やらを解体し、処分場へと運びました。
解体が上手くゆき、一往復で済んだこと,
費用も800円余りという金額でおさまったこと,
色々想定を越えるラッキーに気を良くし、午後は片付け片付け片付け。
しかし、私の気持ちは外へと向かいソワソワします。
何故って、その日は水路作りに最適な日だったからです。日差しは強く、駐車場の雪は水気を含みズブズブでした。
車の轍には水溜まりがてきていました。そうなるとどうしてもやりたくなるのです。
水路作りを
f:id:kyokoippoppo:20190306192921j:plain:w260:leftf:id:kyokoippoppo:20190306193113j:plain:w260

溜まった水を道路へ誘導するのです。
この時期に行う作業です。
水溜まりの横にスコップを差すと同時に水が動きます。できた溝に流れ込みます。
この作業を道路脇まで続けてゆくのです。

コツは水路の深さを少しずつでも増していくことです。そうでないとその場所が新たな水溜まりになってしまうからです。
もう大人の水遊びですよ。
水がキラキラ光りながら、動き流れる様が目に新鮮で、嬉しいのです。

ムコ殿のブカブカ長靴を借用してコツコツコツコツコツコツコツコツ・・・・時々たまったシャーベット状の氷を掻き出します。
いつまでやるの?と娘が窓から覗いています。
「今戻るよ~。」と言いながら、もひとつコン、今度はサクッ、もーうひとつコン・・・・。
ああ楽しかった。

<<5日>>さらば滝川

 朝、外は冷えていました。
f:id:kyokoippoppo:20190306193740j:plain:w320:right駐車場の車のフロントガラスは、どれも霜で真っ白です。
昨日作った水路もガタガタの溝になって凍りついていました。
ガタガタにはなったけど、水路作っていなかったらスケートリンクになっていたな、と勝手に納得した私です。

 お昼に滝川を後にしました。
もちろんの鈍行で旭川へ。
娘の手料理を食べ、こころゆくまでおしゃべりし、可愛い孫の姿に頬をゆるめた3泊4日でした。
旭川からは、迎えにきてくれた夫の車で我が町まで戻ってきました。
私の小さな旅の記録でした。

小さな旅①・・・・滝川へ

おでかけブログです。
取り立てて素晴らしい所へ行ったわけではありませんがね・・・。
下書きを合間合間に書き、帰宅後自宅のパソコンよりアップしました。
<<3月2日下書き記述>>

運賃比較

 ‘’転勤に伴う引っ越し準備のため‘’という名目で、娘の住む滝川にいく予定になっておりました。
ところが、「どうも春の転勤は先送りになりそうだ」と連絡がありました。それてもムコさんがしばらくお留守ということでもあり、年休も申請したことだし、予定通りに出かけることにしたのてす。

 滝川は道央に位置する市です。
JRでも行けますが、バスで旭川まで行き、そのあとあえてJRの鈍行を選ぶという交通手段を選びました。理由は以下の通り。
JR特急・・・・・・・・・・・・・・・5830円
都市間バス+JR特急・・・・4410円
都市間バス+JR鈍行・・・・3280円
f:id:kyokoippoppo:20190305184547j:plain:w320:right
ふだんの生活拠点と比較すると旭川はかなり都会です。ワクワクする場所なのですが、乗り継ぎ時間がほとんど無く、バス降車場から駅構内へと直行です。

滝川に30分早く着く特急をやり過ごし、次の滝川終点の鈍行に乗り込みました。

つり革

f:id:kyokoippoppo:20190305184840j:plain:w200:right

 二人掛けと一人掛けと横列シートがミックスされたレトロ感漂う車両です。しかもワンマン列車。
つり革までついていますが、この列車は立つ人があるほど混むことがあるのかしら?
平日の通学時間だけ混んだりするのかな?

 話が飛びます。
我が地域の子どもたちはほとんどの移動を自家用車で済ませます。
バスに乗車の経験は一部地域の子どもたちの通学、そして社会見学、スキー場への送迎なと、学習に絡むものばかりです。
さて、一年生の国語教材に「はたらく車」があります。その中に

バスにはつりかわがついています。

という文がありますが、わが町でははつり革を見たことがない子どもがほとんどだと思います。
通学バスにはつり革などないからです。
遠足の際、公共の乗り物に乗る体験をしますが、その路線バスにはつり革?ついていたかしら?まあ、それ程存在感が薄い!


 つまり私自身にしても普段の生活でつり革につかまる体験は皆無なのです。
つり革につかまる体験を日常的にしていたのは、独身時代横浜、町田で暮らしていた頃で止まっております。
結婚してこの町にしばらく暮らし帰省した折、久々につり革につかまりました。
その時その行為に対し、やけに懐かしさを感じたのです。
つり革を見るとついそんなことにまで思いがいってしまう私です。

車窓

f:id:kyokoippoppo:20190305185944j:plain:w200:right
真っ暗なトンネル、そして真っ白な雪景色。
白い平原を雪が横なぐりに走ってゆきます。
白一色の車窓です。

立派な旭川駅を過ぎると野ざらし状態のこんな駅も出現します。沿岸地域の我が町より、やはり雪が多いなあ。

バネトーネのパン屋さん

 滝川着。
娘と孫が車で迎えに来てくれていました。
『パネトーネ』という人気のパン屋さんでパンを買いました。
お客さんが入れ替わり立ちかわり訪れており、お昼には早くも品薄状態でした。

www.osenmu.com


持っていったお洋服を孫は喜んで着てくれました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

すぐにチョコレートをなすりつけ、お絵かきの時にマジックをなすりつけました。
ああ、仕方ないね。
晩ご飯は、ホタテの炊き込みご飯、温野菜、具だくさんの味噌汁、生タラとつきこんにゃくの煮物(これは私が作りました。)
デザートにカボチャのパウンドケーキ(これは娘が手早く作りました。)
ご馳走さまでした。

滝川での3泊が始まります。