長浜功氏の理念を手がかりに④・・・・イクバルの闘い

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びっくりした写真

 まず先に、この写真に出会いました。

  『未来って何ですか  ぼくがいちばん撮りたかったもの』 著郡山総一郎より

 まだおしめを当てていても不思議でないような幼児が働かされ、じゅうたんを織っているとは。
そして、『イクバルの闘い』という本につながりました。

イクバルの闘い

 これを書いたフランチェスコ・ダダモさんは、生前の「イクバル・マシー」を知りませんでしたが、目にした新聞記事から彼の生きざまを知ることとなりました。ダダモさんは、イクバルによってじゅうたん工場から救い出された少女を設定し、彼女を一人称としたこの物語を創作したのです。

 イクバル・マシーの、実際の経歴が、別の子どもむけの絵本『イクバル』~命をかけて闘った少年の夢~ の巻頭に書かれておりましたので、下記に抜粋します。


 イクバル・マシーは、1982年に、パキスタンのムリドゥケという小さな村の、貧しい家庭に生まれました。イクバルがまだ4歳だったとき、父親は、わずか12ドルの借金と引きかえに、じゅうたん工場の親方にイクバルをわたしてしまいました。イクバルは、じゅうたんを織る機械のまえにすわらされ(親方によく逆らったので、くさりでつながれることもめずらしくありませをんでした)、1日12時間以上、毎日働かされました。
 9歳のとき、イクバルは仲間をさそって、牢獄のような工場を抜け出し、「債務労働解放戦線」(BLLF)という、児童労働をなくすために活動している団体の集会に参加しました。そのときはじめて、自分が自由になる権利を持っていることを知りました。その後弁護士の助けをかりて、イクバルはじゅうたん工場で働かされてていたほかの子どもたちとともに自由の身となり、ようやく働かなくて済むようになりました。
 解放後は、以前の自分と同じような境遇にいる子どもたちを救いたいという思いから、弁護士を目指して、一生懸命に勉強をしました。また、BLLFの活動にも積極的に参加し、児童労働の現実を世界じゅうの人に知らせるとともに、「子どもたちの手には、仕事の道具ではなく、ペンやエンピツがにぎられなければならない」という言葉で、教育の大切さを訴えました。
(後略)

 フランチェスコ・ダダモ氏による『イクバルの闘い』では、唯一字を読むことができる少女としてマリアが登場し、主人公の「わたし」は彼女から字の読み方を教わります。
そしてある日・・・

 ある夜、わたしたちはついにイクバルが持ち帰ったチラシ(児童労働解放戦線のチラシ)を解読した。突然あの土の上に描かれたいびつな記号や、鳥の足あとにしか見えなかったものが、ちゃんと意味のある言葉になった。チラシの上にならんだ文字を読んでいくとーなにもしないのにーひとりでに言葉がつながって、なにを言っているのか、わかったのだ。
 信じられなかった!心臓があばれていたのを覚えている。これが、字が読めるってことなんだ!動かないものを見ていたはずなのに、それがとつぜん、人間のように生きて、話しかけてきたのだから。

(  )内はkyokoによる。

 この文章は印象的です。
文字とは、こういうものか!という認識を新たにします。私たちは文字という抽象から、真実を知り、他者の思いを知り、世界を広げ、ときに笑い、怒り、涙するのです。


 工場の子どもたちは、秘密裏に学び、絆を深め、知恵を出しとうとう、再びイクバルを工場から脱走させます。イクバルは児童労働解放戦線指導者との接触に成功。そして子どもたちはようやく解放されるのです。


さて、その後のイクバルについては再び、絵本の巻頭ページの引用に戻りましょう。

 1995年4月16日の日曜日、イクバルは久しぶりに故郷の村へ帰り、2人のいとこと自転車にのっていたところ、突然なにものかに銃で撃たれて即死しました。まだ12歳でした。イクバルを撃った犯人は、じゅうたん業界の利権を守るための組織「じゅうたんマフィア」の殺し屋だと考えられていますが、いまだに特定されていません。イクバルが殺されたというニュースは、またたくまに世界中に伝わり、悲しみがひろがりました。
 イクバルたちを殺した犯人たちは、その残虐な行為をきっかけに、労働による子どもの搾取という悲劇にますます世界の目が注がれるようになるとは、予想もしていなかったことでしょう。イクバルの思いは、たくさんの、人々に引きつがれ、児童労働をなくすために、いまなお大勢の人が闘っています。

 イクバルはこのようにして短い一生を終えました。しかし、彼がまいた種は大変貴重で、大きな実りをもたらせたことがわかります。
とはいえまたまだ、児童労働はなくなっておりません。マララさんが、自身が学び、女性達にも学びを!と主張したために銃撃されたのは、2012年のこと。
 ああ、今もこのような子どもたちがいるという事実を見ないようにして、関わろうともせずに過ごしている常日頃の自分に気づいてしまいました。

   *   *   *   *   *

学ぶ幸せを感じられない子どもたち

 このような現実にに比べ、今の時代の日本の子どもたちは、幸せの対象になるはずなのに、当の子供のたちは学ぶ幸せからほど遠いところにいるように感じます。
 腹が減っていなければ、食べ物が美味しくないように、飢餓感がなければ、学ぶ喜びが味わえないのでしようか?
そんなはずはないはずだ!と思いつつも、ではどこに?

 飢餓感のない子どもたちに食べさせる「ご馳走」~新しい発見に出会う喜びや驚き、ワクワク感を伴って受け取られる教育は存在するのでしようか?
「消された学校・・・・山梨県の巨摩中学校」はまさしくそういう存在だったのでしよう。
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以前紹介した斎藤喜博やこれから紹介していくつもりの林竹二の授業なども、私のこの疑問に答えてくれるとのだと思います。

長浜功氏の理念を手がかりに③・・・・カムイ伝

カムイ伝

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 『カムイ伝』は、大変衝撃的な内容でした。感情移入して読むと苦しくなる程、容赦ない展開と描写が続きます。しかし、そこにこそ目を向けるべきでなのでしょう。
随所に農民の暮らしぶりや、身分制度についての解説が入っており、当時の日本の歴史を詳しく学べる作品です。
強くなりたい非人サスケ下人の息子正助が主旋律、副旋律のように絡まりながら物語が進んでゆきます。

 第1巻には、庄屋に頼み込み読み書きを教わった(百姓が読み書きを習ってはいけないご時世でしたが、賢く熱心な正助の願いを聞き入れた庄屋でした)正助が、農民の子どもたちに字をおしえる場面が出ております。



 そして15巻・・・・この巻には正視に耐えない拷問の場面が散りばめられております。
そして一揆の首謀者であった正助が一人生き残り村へもどる場面が。
仲間がすべて死んだのに、何故首謀者たるものが一人生き残ったのか?仲間を売ったに違いない!よくもおめおめと!容赦なく石つぶてが飛んできます。
そう、それこそが、相手の思惑だったのです。殺して英雄を作るのではなく。生かして正助を裏切者に仕立てたのでした。

 しかし、正助はもう、語る口を持たないのです。舌を抜かれてしまったのでした。

身分の低いものが学んだ末、この結末が待っていたわけです。
「正助は学ばなければ良かった。」のでしょうか?
いいえ。
学ぶということが、このような過酷な試練と引換えにしながらも持ちこたえ、今に至っていると考えるべきでしょう。
このような壮絶な痛みや、苦しみと共に、「学ぶこと」は次代に面々とに引き渡されてきたのです。
そして、そこには学ぶ喜びや希望もあったからに違いありません。
このようなことを教えてくれた『カムイ伝』でした。

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長浜功氏の理念を手がかりに② 

長浜氏の教育に対する理念

 『地方公立校でも「楽園」だった』の著者である川村美紀氏が大学院で学んだ際の教授であった長浜功氏。彼の教育に対する理念は以下のようなものだと思います。

・教育は貧困を克服するための力にならなければならない。
・その際体制側や権力者と対峙するかもしれない覚悟を備えていなければならない。
・自分自身や、地域、他者の生活に、より良い示唆を与えるものでなければならない。

 長浜氏本人の著作を読んだわけではなく、よって引用したものでもありません。
『地方公立校でも「楽園」だった』
で紹介されていた文章を読み、こういうことだろうと要約したものです。
 (おそらく大きく違うということはないと思います。)

 長浜氏の考えをそう理解した上で、これを今の教育現場に持ち込むことはできそうもないな、と感じる私です。

長浜氏が、このような持論を述べた当時の「貧困」と、現在の「貧困」のイメージにそもそもズレがあります。
 地域的な問題とか、第一次産業ゆえの問題として、貧困が語られることは今は少なく、どちらかというと非正規社員や、片親家庭、奨学金の返済、老後の設計、働けない働かないなどという個々の様々な事情が原因となっています。
社会的な認知も進みつつあるとはいえ、多くは「貧困」の課題は、個々で対処するほかなく、自己責任の結果ととらえられるおそれすらありそうです。
ですから、教育の方向性としては、からしっかり勉強して、有用な人材になれ!という風に流れがちなのではないでしょうか?
 
 息子の、通った高校では、非正規と正社員では生涯に頂く給料が、こんなに違いますよなどと説明して、マネーリテラシーを学んだようです。
同じ話をPTAに向けても語り、親の意識にも訴えようとしておりました。
「正社員」が安心のキーワードでした。

 内田樹氏が『下流志向』で述べているように、
学校で着席して待つ子どもたちは、いまや消費者的な意識が強く、労働や生活という実感をほとんど持っていないと感じます。
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 彼らを教える立場の教師自身もまた、似たような学童、生徒時代を過ごし現在に至っている方が多いのではないでしょうか?先生方は待遇の良い公務員であり、貧困という実態をつかみにくいことでしょう。また個々の教師が児童生徒の家庭問題にぐいぐい食い込むことは今では難しく、そんな教師と子どもたちで貧困や、社会の矛盾や、労働環境や、生活の向上を主眼とした学びを構築するなんて、ちょっと想像もできないのです。

四つのお話

 しかし本来教育とはこういうとのであるべきだ、という長浜氏の持論を私は簡単に捨て去ることはできません。
しっかり胸に留め置きたい考え方だと思っています。
とともに、いくつかの物語や自伝が頭に浮かんでおります。

⚫『カムイ伝』創作(漫画)
⚫『イクバルの闘い』実話を元にした創作
⚫『この道のむこうに』自伝をベースにした作品
⚫『乞食の子』自伝


 教育の原石を見るような、物語や自伝です。登場する人物にとって、「学ぶこと」は「糧」であり、それを取り上げられたら``飢餓感‘‘に苦しむほどの強い欲求であることが伝わります。

 
 ただし、これらの物語が、長浜氏の理念と重なるかどうか?は疑問です。学校教育とつながる要素はほとんどありませんので、ブログ内容とズレているのかもしれません。
ただ、長浜氏が残した文章に触れたとき、ふっと私の心に浮かんだ作品だったのです。
次回よりそれらを数回に分けて紹介したいと思います。

長浜功氏の理念を手がかりに ①

長浜功氏

 長浜功氏は先に書いたブログ『地方公立校でも「楽園」だった』の著者である川村美紀氏が、東京学芸大学 大学院で学んだ教授です
長浜氏は戦後の優れた教育として、

無着成恭の生活綴方教育(山びこ学校)
・山梨の巨摩中学校
・東井義雄の実践

を挙げました。

 長浜氏は、教育は生活と直結していなければならないと考えているようです。
生活の中にある困難を見つめ、考え、より良くしていくものとして、教育を活用するべきだと考えておられます。
そのため、生活を丹念に見つめて書く「生活綴方」の手法を高く評価しました。https://search.yahoo.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/sophiainu/entry11485810442.html%3Fusqp%3Dmq331AQECAEoAQ%253D%253Dsearch.yahoo.co.jp

sugp.wakasato.jp

何故書くのか?

 では、何故‘’書く‘’という手法にこだわるのでしょうか?
それはきっと、「生活を書く」→「書くという行為を通してさらにしっかりと生活を見つめる」という相互作用が成り立っからではないでしょうか?
 ブログを書くことも同様で、書くことは話すことより労力がいりますし、音声と違って残るわけですから、書いたり、それを読みなおしたりする過程で、自分の思いや考えを整理できます。
‘’話す‘’より、発したものに対する責任感も大きいと感じます。
(そのような責任感と無縁で発信する人もいて、問題になることがあるのは残念ですが。)

生活綴方という方法こそは、わが国が生んだ最も学問的な教育学の最大の成果であるというわたしの結論は今後も変わることはない。

長浜氏はこのように述べております。
 『地方公立校でも「楽園」だった』より。

 「貧困と正面から向き合えば、利益を独占する資本主義社会体制に矛先が向かうだろう。」とも。

 つまり教育や教員は、そのような体制と対峙する覚悟無しにはできないものであり、またそうあることこそが、その試練に耐えうるものであることが、教育の価値であると捉えているのです。

・・・となれば、山梨の巨摩中教育が、実際どんなに素晴らししく、そこで子どもたちが生き生きと学んでいたとしても、教員たちの眼差しが、体制側ではなく子どもたちにのみ注がれていた状況こそが、けしからんかったのであって、それが偏りとか反体制とかいう批判を引き出す要素になってしまったのでしよう。

そもそも教育は誰のものか?という問い

 それにしても、長浜氏の指した「貧困」とはいつのいかなる状況なのだ?とチラリと思ったりもするのです。
 「無着成恭の「山びこ学校」って 昔の、東北の、寒村での実践てしょう?」
それを如何に評価したところで、現在の日本の、地域差が見えにくくなり、子どもが、親の労働や生活と密接な関わりを持ちにくい現実の中で、生活を綴る実践の方法や方向性を見定めることは難しいと感じます。

 しかし今再び、「貧困」は世相を表すキーワードとなっています。
それなのに「教育」が、そこに立ち向かう力をもっていると感じられません。

 教育までもが、もう「勝ち組」の持ち物になってしまい、貧しいものは、親の教育に対する意識も低いことが多く、子どもは学習内容の理解が難しく、どんどん置いていかれ、努力が足りないといわれ、将来は満足な生活をするに足る給料ももらえない・・・・そんな図式が簡単に描けてしまうような状況です。

 そもそもが、学校教育は従順な社会の働き手を養成するためのものなのだという事実(意見)に抗わなければ、
従順に学び、努力し、よりハイレベルな学校へ、よりハイレベルな集団の中へ、と導かれる精鋭は、世界相手の競争力のために必要とされる一方、派遣に甘んじ、労働力の調整弁として働く一定数だって必要とされるのてす。
 教育のキーワードば、さしずめ「点数」「競争」「従順」ということに落ち着いてしまう。
貧困は、自己責任の結果としておく方が、収まりが良いというのが実情ではないでしょうか。
「楽しさ」や「幸せ」が優先される仕組みがそもそもないのかもしれません。
個々の先生方がそれを願っていても、実現しにくい仕組みがもう学校の中に組み込まれているのかもしれません。
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 私とて毎日「小学校」という場所へ行き。何をしてうるかといえば、「がんばんなさい。」だの、「もっとていねいに。」だの「練習しないからだよ。」
「静かにしなさい」だのと言って給料貰っているのです。
 私は支援員という立場で、子どもたちは「せんせい」と呼んでくれるけど、自身はお手伝いおばさんだと思っています。それにしても、だれの何を手伝っているのかな?

 林竹二は、1960年代の行われた全国学力一斉テストをきっかけとして、いっきに点数信仰がはびこり教育現場は‘‘水俣の海‘‘になった。
と言っております。

私は、このごろの学校の子どもたちをとれえている自殺や、いわゆる‘‘非行‘‘はチッソの排水による濃度汚染の当然の当然の結果としてでてきたことと同じである。つまり、学校が教育の場であることをやめてしまっていることからの、当然の帰結だと考えるべきだと思うのです。点数信仰や学力万能という濃度汚染を受けて、学校は子どもたちが生きられない場所になってしまったのです

                   『いま授業を変えなければ子どもは救われない』より(1981年初版印刷)

いま授業を変えなければ子どもは救われない

いま授業を変えなければ子どもは救われない

 全国学力一斉テストは1966年旭川学テ事件で、国による学力調査は違法の判決が出されたこともあってこの年を最後に中止となっております。ただし、この判決は1976年の最終審で覆り、1982年には一部で復活。2007年には全国の小6と中3の子どもたちに実施されるようになりました。(愛知県犬山市はおくれて2009年より参加)
2010年は抽出方式になるものの、2013年は再び全国調査に。成績上位校の校長名を公表した知事もでてきたり、公表をのぞむ声も出始め、「点数」というもののもたらす影響がじんわりと浸透していると感じます。
ameblo.jp

 この調査への批判や、疑問などもありましょうが、そらが私の耳に直接入ることはまずありません。
多くの人が受け入れてしまったという感じでしょうか?
林氏がもしこの状況を知ったなら何と思うのでしょうか?

 それにしても、今ころ林竹二の弁を持ち出して検討する必要などないということでしょうか?
過去の優れた実践はその時だけのものだったと考えてよいのでしょうか?
ノー!であると抗いたい気持ちも持ちながら、確信が揺らぐ私です。
ai-am.net

汚れた毒水を、毒と感じられないほど鈍感になって学校現場で働いているのは、私自身なのでしょう。

小さく減らして大きく増やす

利殖の話ではなく・・・・

「消された学校」(山梨 巨摩中学校)についての記事は、精力的に書いて、私にしては短い期間で投稿してゆきました。
というのも、本書は、町の図書館が旭川の図書館から借りた上で、手渡してくれたものだったからです。
むやみな延長で手元に置いておくのは良くないのだろうな?と思い、貸し出し期間の2週間の間に、一生懸命読みつつ書き上げ、更新してゆきました。

うれしいはてなスター

 これが、効を奏してかアクセスも高い数を数日キープし、(私にとっては20を越えたら高いのです)満ち足りた気分を味わいました。

 そして、この頃スターもポチポチついたりしてワクワク😃💕ドキドキです。
 かなり前、ブログ駆け出しの頃に投稿したものに付けて下さった方もいらっしゃいました。
kyokoippoppo.hatenablog.com

どんな人だろうと興味を、もってその方のブログをのぞいてみました。
あら、’’ミニマリストネタ’’じゃあないですか。
hokkorilife.com


 それを読み、おお、そうだ!我が家のその後の状況についても書けるではないか!ということで、
そう・・・・・・この度の表題となるのです。

小さく減らし、大きく増やす

 これも、以前ブログで話題にしましたが、6月にムスコの引っ越し手伝いのため札幌に行きました。
現在息子は川崎に住む叔父叔母宅に居候しております。当初一時的な仕事をするためにあちらに行き、しばらくのつもりで頼りましたが、結局腰を据えて働くこととなり、放置状態の札幌の賃貸住宅を引き払うことになったのです。
 まだ首都圏での独り暮らしの基盤(まっ、お金ですね)が足りずもうしばらくは叔父叔母の家で暮らすことになります。
ても、いずれは、あちらで住居を借りたい、それまでの間、荷物を預かっておいてほしいということで、ソファからベッドから棚板からデカイ鏡からギターからもろもろのものが、我が家にやって来たのです。一旦処分したら?と勧めたものの譲らず。
何でも、お金まわりがよかった頃に、一生もののつもりで買いそろえたものだということ。
あら、そうなんですか。
‘’一生もの‘’だけあって、スチール製で重いこと、がんこいこと。
東京で、これらをおけるマンションになんか入れるのかい?と思いもしますが、入れるように頑張っている息子の、せめてこんなお願い位は叶えてやろうと我が家の一部屋を提供したのです。

 その際、「我が家の荷物を思い切り片付けよう。
断捨離再開の、良い機会だあ!」と考えていたのですよ。
なのに、なのにできないのです。

 いや、全くしなかったわけじやあない。暑さ7センチほどの、プラスチック性の引き出し一個はカラにして、別のものをそこに入れた・・・・くらいのことはしたのです。
そもそも、プラスチック性の収納ボックス本体が、断捨離の対象になるもので、引き出し一つでなく、全部を処分してこその断捨離であることを知ってはいます。
 でも、私はそれができない。
また、そんな微々たる減量でも、そこそこに満足してしまうのです。

 あっ何十冊もの雑誌も片付けましたよ。それも、一冊一冊解体し、息子が撮影を担当したページだけはファイリングしました。(札幌のおしゃれさんを撮ったページ)

 前述のブログの発信者さんは、「自分はミニマリストではない。」と、断言しておられますが、御夫婦共々、捨てるもの、残すものの基準がくっきりしており、清く整然とした暮らしぶりが想像できます。食卓の上などは何も乗っていないという一文が印象に残りました。
ああ、そのあたりも我が家では無理なところ。
理想だなあ、と思いながらできない。

 さらに私が捨てられない布たち。
こだわりのもと集めた、なんて代物ではなく、ほとんどが着古し。または以前古着屋を営んでいた息子が残した衣類やら・・そんな布。
誰もが、いの一番に棄てれば?と思うような布たち。
 これで孫の服作れないかなあなどと思うともう、捨てられない。捨てるにしても、ウエス経由にできるものは切って取っておきたい。
こんなんで、ホントにいやはや😞💦なのです。

 それでも、よっしゃ!作ろう!と発起して、この1ヶ月ほどブログの更新に並走するように制作に励んだのですよ。
頑張りました。材料費ほぼ0円のお洋服たち。(一部500円均一の端切れを使用。)
しみの部分をよけで、足りない生地はつないで作りました。器用ではないため、失敗してはほどきながら作りました。

 生地そのものが、古びているので、
輝くようなオシャレ感はないものの
いかがでしようか?f:id:kyokoippoppo:20180716144656j:plain:w300:right

使ってもらえるかな?

滝川へ

 三連休は、それを携えて滝川へ。娘と、孫に会ってきました。
まだ小さい孫は、新しいお洋服ってだけで気に入ってさっそく着てくれました。
そして早々に、1枚にはチョコレートアイスをなすりつけてしまい、もう1枚には、オレンジジュースをこぼしました。
「あーあ、さっそくかよお。」とは思いましたが、だから子どもの普段着はこんなもんで良いのだとも思う私が・・・・・・。
酸素系漂白剤につけ洗濯機に放り込み復活させましたが、このような状況ではワンシーズンでよれよれになりそうね。

小さく増やす

 子守りを確保した娘が、がさがさと衣類の、かたつけを始めました。
「捨てる?持ってく?」
と聞いてきます。
「持ってくわ。何かできそう!」
結局またしても荷物を増やして帰ることになるのです。
 最後に、
滝川のおいしいパン屋さん。天然酵母のパンたち。
いやあ、美味しかった。


この度の災害で家族を失くし、家を無くし、思いでを無くした多くの人たちがいらっしゃることが,ちらちらと心に昇ってきつつも小さな旅を楽しんだ私でした。

つながり①

 今回のお題は「つながり」です。
巨摩中の名前こそ、聞いたことはありましたが、私は、この学校の事実を知りませんでした。

 戦後の教育問題や子どもをとりまく環境についてポチポチと書いておりますが、
巨摩中のことはどうしようかな?飛ばして先に進もうかな?とも思ったのです。
検索をかけても、それこそ現在の「白根巨摩中」のことが混在し、的確な情報にたどり着きそうにもありませんてした。

 でも、目に入った『地方公立校でも「楽園」だった』(中央新書ラクレ/川村美紀著)は読んでおきたくて図書館にリクエストをしたのです。

 この本には巨摩中のことが書かれており、巨摩中のことを知ることができる・・・・・当たり前ですが、その当たり前の前提で読み始めました。

 しかし、そこには、巨摩中に事象として起きたことを越え、そこに至る歴史、社会事象、人の思いや歴史などが丁寧に記されておりました。

 時間のトンネルがあり、広場があり、人がいて思いがある、社会があり、慣習がある。
そしてそこに縛られず働いた巨摩の教師がいる。中学生の美紀さんがおり、そこで学んだ先輩や友がいて、その生徒たちが、時間のトンネルをくぐり再び登場する。

 そのように広がりをもったこの本の中で、思いがけず私は、懐かしい風景にに出会ったのです。
それは、単なる単語から想起される微かな思い出なのですが、私もトンネルをくぐったり戻ったりして、散策をしたような気分になりました。

 そう、とても個人的なこと。
だから、これは私が私のために書くブログであることを先にお断りしておきます。


 ⚫「新しい絵の会」
巨摩中教育の創成期から年間、研究の中心となり、牽引役なっていたという久保島信保氏。彼は「新しい絵の会」に所属していました。

note.mu

 ああ、私もその会に入っていたな。神奈川の小学校で働いていた時に。
この会への直接的な興味からではなく、この会の研究大会(鳴子)で林竹二が講演することを知り、入会したと記憶しております。
結婚し、学校という職場とは無縁になりましたが、近所の子どもたち対象に土曜日の午後「絵の教室を」開いた時期もありました。

⚫「明星学園

本書には巨摩中と明星学園のかかわりについて、書かれていました。


巨摩中は明星学園とも交流を持っており、とくに最初のころは明星学園から学んだことも多かったらしい。当時、明星学園は「民間教育研究のメッカとして、毎年行われる公開研究会には、全国から二千名もの熱心な教師が集まって、熱っぽい討議が行われていた」(『ぼくたちの学校革命』)。
また無着成恭が同校の教師となっていた。


そう!これも林竹二の講演目当てで、公開研究会を見に行きました。
まだ、無着成恭氏が、在職していた頃でした。
この会場で、『ひと』誌を知り、その後長い間購読を続けたのです。
『ひと』の出版社は太郎次郎社。現在一連の、記事を書く際の参考にしているフォト・ルポルタージュ子どもやがて悲しき50年』の出版社でもあり、私の教育実習の担当教諭であった千葉保氏の著者をだしている出版社でもあるのです

「林竹二」「斎藤喜博
 『地方公立校でも「楽園」だった』の後半には、斎藤喜博、林竹二の名前も登場します。
巨摩中に13年間在籍し、音楽を教えた埴原美枝子教諭が後年宮城教育大学の非常勤講師になったことに関連して語られております。
斎藤喜博氏については、先のブログで1970年あたりまで書いております。
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その後1974年、斉藤氏は林竹二に推されて宮城教育大学授業分析センター専任教授に就任します。
その斉藤氏の要請で、埴原教諭は同大学の非常勤講師になるのです。ここには、林竹二→斎藤喜博→埴原美恵子のつながりが見て取れます。


 3年間の、神奈川での教員生活での一コマ一コマを思い出しながらこの本を読み終えました。
そして、それは懐かしいばかりでなく、今の私に繋がっていることも実感しました。
この家庭を作り、我が子を育て、いまだその子どもたちの心配をし、迷いの中にいる私に。

このようなブログを、書き綴っている私に。

消された学校

巨摩中教育

 さて、続きです。
巨摩中学校のことでしたね。
前回のブログで、続きは次回と書きましたが、
この学校での実践をブログで伝えきるということは、不可能だなあと感じております。
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⚫教師によって作り出された自主教材で学ぶ⚫生徒のレポートがテスト替わり⚫芸術教育が重視される⚫生活綴方的な視点の実践である⚫合唱が素晴らしい!

 断片だけを列記しても伝わらないとは思うものの、詳しく理論的に、となるとこれは私の能力を越えてしまう。
まずは、
『地方公立校でも「楽園」だった』
のページより、
 75年の毎日新聞紙の巨摩中の教育を紹介している部分を引用してみます。

 巨摩中の教育は、音楽、美術、演劇などに力を入れ、さらに全教師集団による各教科の授業研究などによって、全校的にきわめて質の高い教育を行っていることで全国の教育関係者から高い評価を受けている。いまはほとんどすへての中学校が受験体制をとっているとき、巨摩中は受験体制をとっていない。ほかの地方ではテストとテストの合間に授業をやるといったテスト体制をとってあるとき、巨摩中はテストをやる暇があれば授業をやるとして定期試験がない。ほかの中学校では生徒の半数が授業について行けないといわれているとき、一人々々の子どもを大事にする巨摩中には、‘’落ちこぼれ‘’がいない。その結果、巨摩中の高校進学率は、かえって近隣の中学校のトップだという。

 このような学校だったのてすが、もちろん一気にこのような成果が生まれた訳ではなく、そこには先生方のたゆまぬ研究があり、すへては生徒のためにという思いの一致があり、また、それに応えた子どもたちの存在がありました。
中でも、久保島信保という先生が中心的な役割を担い、研究を推進しました。
詳しい実践は、彼が記した
『ぼくたちの学校革命』で知ることがてきます。
皮肉なことに後にこの本の存在が、久保島教諭と巨摩中にマイナスに働くことになるのですが。

公開研究会・・直前の中止

 前述の毎日新聞紙の、記事には続きがあります。

巨摩中とは、いまどきの中学校としてはこういう‘’風変わりな‘’学校だから、篠原校長もいうように地元の人から理解されにくいのかもしれない。

                    
 (太字はkyokoによる)
 校長は、そんな我が校を誇らずに、地元の人から理解が得られないと憂慮しているようだと結ばれております。

 この年、これまで全国から多くの人が訪れ、熱い視線を注がれた「公開研究会」が急遽中止となったのです。
毎日新聞の記事はそのことを取り上げたもので、中止の職務命令を出した校長の弁から、「理解されづらい」というあいまいで、苦し紛れのような一言が発せられたということなのでしょう。

 しかし、それまでの12回の公開研は町も予算を組み、協力体制のもと脈々と続いてきたのです。

 たしかに巨摩中以外の近隣の中学校の先生方や生徒、その親たちはこのような、突飛なやり方で成果を上げる巨摩中の存在を、手放しでは称賛しなかったかもしれません。
ここが、際立つほど、自分たちの実践や実態が、おとしめられるように感じたとしても不思議ではありません。もし、ワタシがその立場ならそう感じるでしょう。

 でも、そんなやっかみだけが原因で、プログラムも出来上がり案内状も発送し終わり、間近に迫った計画が中止になることはあり得ません。
校長だって、直前の中止という混乱を望むわけはなかったと思います。
実は、町の行政側(教育委員会)や議員から圧力がかかった結果の出来事だったのです。

 75年・・・・この年は『地方公立校でも「楽園」だった』の著者である、川村美紀さんが、入学した年でした。統一地方選挙の年であり、町では町長と町議のダブル選となり、感情的な対立が表面化し、陰湿てドロドロとした様相を呈していたのです。

町長選に立候補した三人は、いずれも保守系無所属と、いわば同族ばかりなのだから、元よりたいした政策上の論争などあるばすがない。町の現状についていろいろ意見が飛び交うなかで、「巨摩中は、よそと違う教育をしている」という声があり、巨摩中が議論の的となってしまった。現職町長のブレーンが教育委員で、言ってみれば斎藤町長も巨摩中を育てる側ということになる。となると、名執は、巨摩中のこともおもしろくない。さまざまに噂が立つ学校だから、そのことを選挙で取り上げて、巨摩中の「正常化」を選挙のスローガンにしてしまったのだ。
 結果は反巨摩中派の辛勝に終わった。これを契機に、じわじわと巨摩中への圧力がかかりはじめることになる。

『地方公立校でも「楽園」だった』より

 もちろん、個性色の強い公立学校の是非はもともとあったことでしょう。辛勝とはいえ、選挙の結果は民意ととるべきでしょう。しかし、選挙で取り沙汰された正常化、イコール学校の有り様を全否定することではないはずです。
 また、ここの教育を否定するにしても、ここで行われていることを知らずしては成り立たないと思います。
そもそも、教育は子どもたちのためにあるものです。子どもたちが喜びをもって学び、いきいきと活動する場所を、変えてゆくのならそれ相応の理由なり、ビジョンが必要です。

 川村美紀氏の本を読む限り、そのようなビジョンはかけらもなく、ただ、始めからここが気に入らない、ここのやり方は容認てきない、の一点張りで、この直前の公開研究の中止もしかりですが、乱暴なやり方で、学校を潰していったのです。

 この学校の実践の要ともいえる「自主教材」の使用は、教科書無視ととらえられました。
久保島教諭(前年度74年度末に意に添わぬ異動をさせられております。)による書籍『僕たちの学校革命』の革命の言葉が取り沙汰されたりもしました。
この年(1975年)甲子園出場の快挙をなした、巨摩高校の野球部レギュラーに、巨摩中出身者がいないではないか!ということさえ、マイナス材料にされました。
(部員はいたのですが、レギュラーでは、なかったのですね。)

さらには巨摩中の教職員はアカだという根も葉もない決めつけのもとに事が進んでゆきました。
また、今では当たり前になっている家庭科の男女共修ですが、巨摩で先駆けて行っていたこの共修、けしからん!と指摘されたのでした。
(中学校では1993年に男女必修化となっている)

 ‘’巨摩中の正常化‘’のために教師の入れ替えが3年間をかけて行われました。75年春(74年度末)には長くここの教育を牽引してきた、久保島教諭が去っており、75年度末には7名、次の年には5名の教師が、意に反して異動させられました。
 残るは在任年数の浅い教師と、教育委員会の配慮によって転任してきた「巨摩中をつぶす」という意志をもった教師たちでした。

全職員が入れ替わった1977年には、校舎も鉄筋3階建てとなり、校名も白根巨摩中学校と改められ、全国の教師たちが熱い視線を注いでいた巨摩中学校は、跡形もなく消し去られてしまった。

           フォト・ルポルタージュ『子どもやがて悲しき50年』より

 全国での中学校で落ちこぼれや非行が取り沙汰されるなか、子どもたちが、とにかく楽しい!という思いで学び、成果もあげ、また多くの学校関係者が注目した学校でしたのに。
その、価値を知ろうとし、いくらかでも真摯に向き合おうとすれば、山梨の宝にもなっただろうに。
公立校として偏っている実践があったとしても、話し合い、譲歩し合うことで何らかの改善策は見つかったかもしれないのに。

まるで、ゴミを処分するように、この宝物を手放してしまつたとは・・・・。
残念でなりません。

日本テレビから放送された「ドキュメント'82『学校が消えた』」では、「昭和四十年度卒業生一同」が記念に贈った石碑「この門の内で真実を学び仲間を得た」が石塊となって新校舎の縁の下から探し出される光景が映し出された。

「子ども やがて悲しき50年」より 

 今回話題にした出来事は過去のものです。
『地方公立校でも「楽園」だった』も、
『ぼくたちの学校革命』も絶版になっている気配が濃厚。(しっかり確かめてはおりません。あしからず)
でも、「教育」を考えるとき、巨摩中の精神は時代を越え、示唆を与えてくれると思うのです。
学ぶとは、どういうことか?
学校は誰のためのものか?
"子どもたちが、楽しくてたまらないと感じる学校の実現は不可能ではない"という真実を、私は胸に刻んでおきたいのです。
コメントに従い
かつての生徒たちの合唱のホームページ載せたのですが、うまく貼れたかな???

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