コルチャックとピウスツキ兄弟 ⑨

同じ時代に違う理想を追って生きた3人
ヤヌシュ・コルチャック
ブロニスワフ・ピウスツキ
ユゼフ・ピウスツキ
彼らの年譜を並べてみましょう・・と始めたこの企画です。
ブロニスワフは1918年セーヌ川に身を投げて亡くなり、
弟ユゼフは17年後の1935年に病死しましたので、その後の記述はコルチャックの晩年のこととなりました。
そして今回は、死へのカウントダウンが始まった最晩年の数ヶ月を綴ります。

ユダヤ人の根絶

1942年1月・・・ヴァンゼー会議。
ベルリン郊外のヴァンゼーで会議が行われ、「ユダヤ人問題の最終解決」が決定された。

 ヨーロッパのユダヤ人1100万人を根絶することが決められました。
恐ろしい噂がもれ聞こえてくる間に、コルチャックの救出作戦が計画されるのですが、コルチャックはこれを拒み続けます。
子どもたちを置いてゆくことなど彼には到底考えられないのでした。

 下記は、5月15日付で綴られたコルチャックの日記、「思い出」です。

私はヴィスワ川を愛する
私がワルシャワから引きさかれても
私の心の奥深く、ワルシャワに憧れる
ワルシャワは、私のもの
私は、ワルシャワのもの
もう一度、言いたい、
私はワルシャワなのだ
ワルシャワと共に幸せであり、不幸せであった
ワルシャワの天気は、私の天気だ
ワルシャワの雨も、土も、私のもの
私はワルシャワと共に大きくなった

コルチャックがこんなにも別ちがたく愛するワルシャワなのに・・・ここは、もうコルチャックを受け入れる余地を持たない土地となっていました。

最後の贈り物

 コルチャックは子どもたちに最後の贈り物をしようと考えました。
タゴールの戯曲『郵便局』を、子どもたちによって演じさせてやろうという試みです。
タゴールの作品はナチスの検閲で禁じられていたのですが、コルチャックは敢えてこの作品を選びました。

同年7月18日・・・『郵便局』の上演

  コルチャックは劇の上映中、ホールの片隅で腰を曲げて立っていました。そのひとみは、観客たちに「さようなら」を告げているようでした。
これがホームでの文化活動の終わりでした。

(『コルチャック先生』より)


『郵便局』の内容は「死」を暗示させるものです。
病気で外へ出ることができない主人公「オモル」は、ゲットーの中に閉じ込められたユダヤ人と重なります。
オモルは、”希望”の手紙を運んでくれる郵便配達人をまどろみながら待ちます。
そして手紙を運んできた使者に看取られながら永遠の眠りにつくのです。
子どもたちや観客であるユダヤ人たちが、これから迎えるであろう「死」・・・その「死」を、このような形で伝えようとしたのではないか?
『コルチャック先生』の著者である近藤康子氏は、この上演をそのようにとらえております。
最後の文化活動は、”死が恐怖の対象ではなく、命あるものが必ず向き合わねばならない現実である”というメッセージを残して閉じられました。

この4日後・・・

7月22日・・コルチャック64歳の誕生日
     朝7時半、ゲットーが武装した警察官に包囲される。
     東部へ再移住をすることが告げられた。

断たれた最後の望み

再移住とは、すなわち「抹殺へ向かう移住」を意味します。

 ユダヤ人評議会議長チェルニアクフは、この日までドイツ側にできるだけの譲歩を求めるように働きかけてきました。
特に孤児院などに入っている子どもたちは除外してくれるよう懇願してきました。
しかし、この願いは聞き入れられませんでした。
自分の無力に力を落とし希望を失ったチェルニアクフは、青酸カリによる服毒自殺でこの世を去ります。
夫人も後を追いました。

「彼らは、私の手でわが民族の子どもたちを殺せという。私に残された道は死しかない」
遺書の言葉です。
チェルニアクフの死はコルチャックたちにとって最後の望みが消えたことを意味しました。


 ゲットーへの食料を断ち、飢えきった人々にパンとマーマレードの供与を提示することによって自発的な移送を促すナチス
地域ごと建物ごとに住民は連れ去られてゆきました。
人々が向かう先はワルシャワ・ダンツイヒ駅の積換場です。

トレブリンカへ

8月5日もしくは6日・・・約30の福祉施設から総計4千名余の子どもたちがトレブレンカへ旅立った。

 コルチャックのホームの子どもたちは整然と四列に並んで歩いて行ったと言われています。警官も鞭を使わなかったとも・・・・。
子どもたちはステファ夫人の用意したいちばんよい服を晴れ着のように着て、水筒をかけ、小さなリュックサックを背負っていました。大切な宝物おもちゃをしっかり持つ者もいました。幼い子どもをのぞけば、夏期休暇村は行くのではないことを悟っていたはずです。しかし、それ以上は子どもたちの想像力もおよびませんでした。大人たちも経験したことのない、狂気の世界への出発でした。

暑い日ざしの中を行進はつづきました。周囲をユダヤ人警官が固め、S・Sが威嚇します。途中落伍する者はその場で射殺されます。
のどがヒリヒリ渇く、トイレにも行きたい。しかし、すべてが拒絶され、否定された行進でした。

(『コルチャック先生』より)


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(画像は travel ・ jpよりお借りしました)

 混乱する積換場でいよいよ積み込みが始まろうとする寸前、ひとりの男が走ってきました。

「ドクタードクター!コルチャック!あなたは残っていいのです。貨車に乗らなくてよいのです。」
コルチャックは移送の対象から外れることができたのです。
コルチャックは答えます。
「私は子どもたちの父親です。私だけがどうして・・・」



コルチャックの最後の救出の場面はいくつかの証言があるようです。
しかし、変わらないのはコルチャックは子どもたちとともに、貨車に乗り込みトレブレンカへ向かったということです。

その後の足取りはわかりませんが、彼らが非人間的な最期を迎えたという憶測しかできないことは、何とも胸の痛むことです。
eritokyo.jp

第二次世界大戦のその後はウェブページからの抜粋で済ませます。

 1944年6月に連合国軍がノルマンディー上陸作戦を敢行、ドイツ軍は次第に追いつめられる。太平洋戦争では同年7月、サイパンが陥落。アメリカ軍による日本本土爆撃が本格化した。連合軍は44年8月にパリを解放。1945年2月、連合国軍首脳はヤルタ会談で戦後処理で合意した。西から迫ったアメリカ・イギリス軍と東から迫ったソ連軍が4月25日にはエルベ川で邂逅し、米兵とソ連兵が握手し「エルベの誓い」と言われる不戦の誓いをした。
 
  ベルリンはソ連軍が先着して包囲し、首相官邸地下壕にこもって抵抗を続けたが、4月30日にヒトラーが自殺し、ベルリンは陥落して5月8日に正式にドイツが無条件降伏してヨーロッパの戦争は終わった。
 
  アジアでは日本軍の抵抗が続いたが、4~6月は沖縄戦、5月の東京大空襲焦土化が進み、7月、連合国はポツダム会談で日本に無条件降伏を勧告。8月に広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦が続き、ついに8月14日に日本は昭和天皇との御前会議で日本の無条件降伏(国民への発表は8月15日)して大戦は終結した。正式には9月2日に、東京湾の戦艦ミズーリの艦上で、日本政府が連合国代表に対する降伏文書に署名したので、国際的にはその日が戦争の終結日とされている。

『世界史の窓』のウェブページより。


やっとここまで綴ることができました。
ここで終了????
いや・・・実は私、なごり惜しいのですよ!!
次回は資料編をこしらえてホントのホントの最終記事にいたします。

kyokoの偶偶石 24 ・・・・アンジ君の座布団

 本日日曜日は「偶偶石」の記事を書く日です。

一週間ごとのアクセントとなるこのカテゴリ・・・苦戦しつつも楽しく綴っております。

 今回は、夫が湧別の浜から拾った石と黒曜石のコンビネーションです。

先週黒曜石の記事を書いた矢先に、北海道新聞の地方版に次のような記事も見つけましたので、まんまる黒曜石に登場してもらうことにしたのです。

kyokoippoppo.hatenablog.com
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www.okhotsk.biz

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今回登場の石に「アンジ君」と名前を付けましたが、
これは黒曜石の産地遠軽町白滝のご当地キャラクターの名前でもあります。
北海道の先住民族であるアイヌの人々は、黒曜石を
「アンチ」「アンジ」のように言い表したそうです。
そこから、白滝のゆるキャラ、アンジ君が生まれました。



アイヌ語の anchi, anji が黒曜石の意味であり、現在でも北海道に地名が残っている。山田秀三著『北海道の地名』から拾ってみる。
現在の「安住」は、オンネ・アンジ川、ポン・アンジ川に因んだものとして、この「アンジ」は黒曜石 (anchi, anji)の意味である。
アンチ・オ・ユーベツ:anchi-o-yupet 即ち、黒曜石・多い・湧別川

(古代史とアイヌ語のウェブページより)



kyokoの偶偶石24・・・アンジ君の座布団


ころころ

ころころ

こくようせき

ぼくの名前はアンジ君


ころころ

ころころ

転がって


いつのまにか

まんまる君


f:id:kyokoippoppo:20201011100423j:plain:w400:left転がり疲れた

その先に

待っていたのが

この座布団

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収まりよくて

心地よく

ついの住み家にしようかな?


アンジ君が主役のようですが、実は石の個性が際立つのは「座布団」に見立てた石の方ではないかしら???

コルチャックとピウスツキ兄弟 ⑧

反ユダヤ主義

 このタイトルで書くのも今回で最後?
と思っておりましたが、どうでしょうか?
当時の世の中の情勢に合わせて、コルチャック先生の最後の日々を丁寧に綴ろうとすれば、今回では仕上がらないかもしれません。

とにかく書き始めましょう。

前回は再びポーランドが分割されたところまでを書きました。
西側をドイツが、東側をソ連が支配することになったのです。

まん中のワルシャワは、総督領となりドイツの植民地のようになりました。

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

『コルチャック先生』文中のこのような記述を読めば、
「ソウトクフ」「ソウトクリョウ」って何だ??
どんなものだ???
と疑問が湧きます。
調べて見ましょう。
フムフム・・・。


ドイツに併合されなかった旧ポーランド領は、ポーランド総督府と呼ばれる統治機関の下に置かれた。1939年10月26日にハンス・フランクが総督に任命された。首都はクラクフで、行政区画はワルシャワ 、ルブリン、ラドムクラクフの4つに分けられる。1941年6月のソビエト侵攻後、ウクライナソビエト社会主義共和国の一部であった東ガリツィアがポーランド総督府の5つ目の領域となった。

ポーランド総督府は、純粋にドイツの統治機関で、ポーランド人から構成される傀儡政権ではなかった。
これはドイツ支配下のヨーロッパに新たなポーランド人州を作ろうとするものではなかった。1941年3月ヒトラーは、「ここを15~20年で完全なドイツ人居住地にする」と決定していた。
ヒトラーは、「4~5百万人のドイツ人に対して、1千2百万人ものポーランド人がいる。ポーランド総督府領はラインラントと同じくドイツ人のものになるべきだ」と述べている 。

1939年秋、ドイツに併合された旧ポーランド領からポーランド人がポーランド総督府領に強制移住させられ、ポーランド人にとって巨大な強制収容所の様なものとなった。
そこでは、ポーランド人の男女はドイツ第三帝国の工場や農場で強制労働を強いられた。

Wikipediaより。改行、太字、大文字はkyokoによる。)
併合されなかったポーランド領は、完全にドイツの支配下に置かれており、ゆくゆくはドイツの居住地になる土地として扱われていたのですね。

 このようなポーランド総督府の中でのポーランド人の苦悩は計り知れませんが、そこにあってのユダヤ人の立ち位置はどのようなものであったのか??
これも、つかんでおきたいところです。困ったときのWikipedia!!
記事がボリューミーになりますが、自分のためにコピペしました。

戦前、ポーランドには300万人のユダヤ人が住んでいたが、これは当時の全人口の約10%に相当する。
ポーランドは敬虔なカトリック国家であるため、この非キリスト教少数民族の存在は常に緊張の原因で、ポーランド人とユダヤ人の間で周期的に暴力の応酬があった。
戦前には社会的に広く反ユダヤ主義が存在し、時に反ユダヤ主義カトリック教会やいくつかの政党によって助長されたが、政府が直接反ユダヤ主義を唱えることはなかった。
ポーランドには反ユダヤ主義に反対する政治勢力も複数存在した。しかし1930年代後半になると、反動的な反ユダヤ主義勢力が政界で地歩を得るようになっていた。ドイツは明らかにこういったポーランド人の反ユダヤ主義的感情を利用することができた。
占領下のポーランド人の中には一旦かくまったユダヤ人をドイツ人に引き渡したり「ユダヤ人狩り」をして生計を立てたりするものがいたが、ポーランド人の大半はユダヤ人絶滅政策に協力するよりはユダヤ人をかくまうことを選んだ。
反ユダヤ主義は特に東部地域で根強かった。そこは1939年から1941年までの間ソ連が占領していた。この東部地域では、ユダヤ人はソ連に協力していたとして地元住民に非難されており、ソ連占領下でユダヤ人の共産主義者カトリック教徒のポーランド人を抑圧したり国外追放したりするのに主導的役割を果たしていたと言われていた。その結果として、復讐行為が起こり、時には無実の者が標的にされた。

ドイツ占領下ではほとんどのポーランド人は生き残るために必死だった。
ユダヤ人絶滅に反対したりそれを防ごうとしても、そういうことができる状態になかった。しかし実際は多くのポーランド人が命を賭けてユダヤ人をかくまったり、他の手段で支援した。
ユダヤ人を支援した場合、支援を提供した本人だけでなくその一家全員、時には近所の人々も全て死罪とされたのはポーランドだけである。

Wikipediaより。改行、太字、大文字はkyokoによる。)

コルチャック先生・・晩年の苦悩

占領軍が、全ての慈善活動を止めさせたため、孤児院(ドム・シェロット)は運営資金の捻出に苦慮することになりました。
コルチャックは、毎日、個人の家や福祉団体に寄付のお願いに歩かなくてはなりませんでした、
その頃のエピソードです。

占領軍のテロ行為のなかを命がけで出かけて行ったとき、ある金持ちのユダヤ人商店主は、コルチャックの求めを快く思いませんでした。「先生は、子どもたちがかわいのてしよう。それでしたら、やたらと子どもたちをよく知らない人に手放したりしないでしよう。私は私のお金がほんとうにかわいのでよ。百ズウォティ札のどれもが私の子どものようなのです。」コルチャックはしばらく考えて「あなたの親心をかき乱してしまって申し訳ありません。」と丁重に挨拶を述べて帰ろうとしました。商店主はあわてて彼を追い、「さあ、私の子ども二人を連れて行ってください。」とコルチャックが手のひらに紙幣を押し込みました。

『コルチャック先生』より



1939年・・・コルチャックは人々の善意に訴える声明を出した。

反響は大きく、その冬を乗り越えることができました。

1940年4月~5月・・・ポーランド西部ウゥチに初めてゲットーが作られる。
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 ワルシャワでのゲットー建設も着々と進められておりました。
コルチャックは、ゲットーに入ったら夏期休暇村へ行くことはもはや困難であろうと考え、子どもたちに緑と新鮮な空気、自由に走り回れる生活を贈りたいと思いました。慈善協会に手紙を書きました。
コルチャックの思いは実現します。
子どもたちにとっては、健康的な夏を味わう最後のひとときとなりました。

1940年・・・・夏季休暇村「小さなバラ」で二週間を過ごす。他のホームの子も交えての楽しい思い出作りとなった。

慈善活動が軍当局によって止められている中、コルチャックの手紙による訴えがこのようなことを実現させたのですね。

同年11月・・・・ドイツ軍当局の命令により、ゲットーへの移動。
ホームはゲットー内の学校の施設へ引っ越し。

「ナッシュ・ドム」の教員だったポーランド人のスタニスワフ・ロガルスキは、コルチャックと子どもたちが荷物を持ち、二列になって、先頭の二人がポーランド国旗を表わす赤と白の小さな横断幕を持ち、最後に「ダヴィデの星」の幕を持って、歌を歌いながらゲットーへ入っていくのを見ました。

『コルチャック先生』より

引越しは順調に進みましたが、最後に持ち込み禁止のじゃがいもを積んだトラックが見つかり、足止めをくらいます。
子どもたちの大事な食料であるじゃがいも・・。
コルチャックは警察官に抗議しました。

警察官は彼がユダヤ人だと知ると殴りつけ、政治犯の多い刑務所に入れてしまいました。
心配したホームの卒業生たちは、救出に必要な大金3千ズウォティを集めるべく奔走しました。
コルチャックは数ヶ月後にようやく釈放されます。
卒業生たちは、公務員の日給600日分に相当する程のお金を集めたでのす。

コルチャックという人物がいかに多くの人々の希望であったか
・・・それが伝わるエピソードです。

ゲットーの中での生活

 ゲットー内の環境は悲惨なものでした。
人々はなんとか生き延びようと知恵を絞るものです。
家の地下室から掘り進んだ地下道や、下水道を伝って外に出て物資を仕入れたり、金のあるものは賄賂を使い物資を仕入れたそうです。
地下道は数百以上あったといいますから驚きです。
物資を仕入れ高く売るこの仕事は命がけのものでした。
そしてこの密輸で活躍したのが身体が小さく、「ダヴィデの星」の腕章を付ける義務のない子どもたちだったそうです。

食べること、生き延びることに労力の全てを使い果たすようなこのような状況にあっても、コルチャックは文化活動を大切にしていました。
講演会、音楽会、演劇が開催され、ホームはゲットーの人々の心を癒す中心ともなっていたのです。

1941年6月・・・ドイツは不可侵条約を破棄して対ソ戦を開戦する。

同年11月・・ホームはシスカ通りのさらに狭い施設へと移動。
    その頃は200名を越える子どもたちが収容されていた。


コルチャックは老齢による身体の不調を押して街を歩き、人々に寄付をお願いするために歩き回りました。
一日中あるいても得られるものはごくわずか。
”他者の犠牲” ”不正な奪取”によって届けられた食べ物を、それと知りながら受け取ったというエピソードもありました。
それほど食べるものにこと欠いていたのです。


同年12月8日・・・・日本軍が真珠湾攻撃
       アメリカが日・独・伊に戦線布告。太平洋戦争始まる。

同年12月・・・・クリスマスの贈り物がホームに届けられる。

 1941年12月末ークリスマス。
 ポーランド地下抵抗組織(レジスタンズ)から子どもたちへのクリスマスの贈り物が届けられようとしていました。彼らは、きれいにリボンで包装したいくつもの箱を、ごみ運搬トラックのごみの中へかくして出発しました。ゲットー入り口でいつものように検問をすませたトラックは、ホームへひた走ります。静まった孤児院へ無事届いた贈り物ものに、コルチャックはしわがれた声で「ありがとう」と言い、使者たち一人ずつと抱き合い、幸せと平和を祈るのでした。一枚の礼状がそっと渡されました。「ユダヤ人たちは、この人道的連帯行為をけっして忘れないであろう。兄弟として同胞としてポーランド人のしたことをー」文字は震え、彼の深い感謝の念が伝わっていました。

『コルチャック先生』より(漢数字はアラビア数字に変換して記述しました。)

  *  *  *

 やはり最後までたどりつきませんでした。
紹介したいエピソードや自分のために貼り付けておきたい文章がたくさんあって・・・。
おそらく、おそらく・・・次回が最終回です。

おつきあいいただいた皆様・・・ありがとうございます。

白滝のジオパークへ!!

秋晴れの中

 勤務する小学校の5年生は、総合で「湧別川」について学んでいます。
先月は河原に行き、水質や水生昆虫を調べました。
kyokoippoppo.hatenablog.com


本日は、上流から流れてくる黒曜石について詳しく知るために、遠軽町白滝のジオパークを見学してきました。
私にとっては、初めて訪れる場所!
大変楽しみな今日の日だったのです。
ジオパーク」の説明は、こちら↓

ジオパークとは、「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」とを組み合わせた言葉で、「大地の公園」を意味し、地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができる場所をいいます。

大地(ジオ)の上に広がる、動植物や生態系(エコ)の中で、私たち人(ヒト)は生活し、文化や産業などを築き、歴史を育んでいます。ジオパークでは、これらの「ジオ」「エコ」「ヒト」の3つの要素のつながりを楽しく知ることができます。

日本ジオパークネットワークより)

 町営バスに乗り、海辺の町「湧別」から内陸へ、いざ出発!!

f:id:kyokoippoppo:20201006171633j:plain:w500:left遠軽の「道の駅」の脇から、高速道路(高規格道路)を南下します。
子どもたちの相手もせず、ぼーっと景色を見ながらのドライブ!!いい気分!!
内陸へ向かうほど、紅葉の色付きも進んでいるように感じました。

ジオパーク

到着!!f:id:kyokoippoppo:20201006171653j:plain

おお!!!柱も黒曜石のモザイクです。

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館内の床には、大きな現在地の地図が描かれておりました。
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この地で200万年前頃に大噴火が起き、その際流れ出た溶岩が固まり、大きな露頭となって残っているのです。
白滝のものは、日本最大級の規模を誇るそうです。



岩盤のそばに無数にある黒曜石の原石・・。

それらは大昔の人々の暮らしの道具となって、狩猟生活の移動に伴ってあちらこちらに運ばれたそうです。
ガラス質なので、刃物として使われたのです。

高規格道路建設に先立って行われた発掘調査は、1995年~2008年の12年間で、その間に出てきた出土遺物は7,677,467点で、総重量は12トンであったということ。
これには驚きました。
(写真は館内の展示物)







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 黒曜石は、そばを流れる湧別川によって運ばれ、下流の河原やオホーツク海の海岸にやってきました。
流れついた石は角がとれ、削られた表面は白っぽくなっております。
(写真は我が家の黒曜石!!)
このあたりでは、普通に見られる珍しくもない石なのですが、日本全国どこにでも転がっているわけではないのです。






f:id:kyokoippoppo:20201006171613j:plain:w200:left見学の後は、黒曜石を削り模様を付け、ネックレス作りをしました。
彫るデザインは、たくさんのサンプルの

中からえらぶことができます。
私は南京錠の模様にしましたが、楓とか、十字架とか、雪の結晶とかの方が良かったかな!!



もっと丁寧な記事をと思いますが、まだ週の真ん中。
おでかけしましたよ~気分だけで仕上げた記事となりました。

詳しくお知りになりたい方は、こちらをのぞいて下さいませ!!↓
kai-hokkaido.com




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あっ!!
そうそう!!
白滝といえば合気道の開祖植芝盛平が有名です。
(写真はジオパーク館内にあった肖像画です。)

1912年(明治45年/大正元年)29歳。政府の北海道開拓団体募集に応じ、農家・漁民の次三男を主とする54戸80余名の「紀州団体」長として紋別郡上湧別村白滝原野(のち遠軽村→遠軽町白滝村遠軽町)に移住する。原生林の伐木などの重労働、夏季の暴風雨、冬季の酷寒・豪雪、3年連続の凶作などのため難儀を極める。盛平は率先して伐木に取り組む傍ら、役所への陳情嘆願に奔走、またハッカ栽培・製材事業・馬産酪農を奨励、入植3年目以降は開拓民の生活も好転、小学校建設、商店街・住宅の整備を図り、村は活況を呈するようになる。
伐木作業への従事により盛平の豪力ぶりはますます強靭さを増した。食料買出しの帰り3人の強盗に遭い雪中に叩き込んだ、坂道を転落した馬車を馬ごと上まで押し上げたなどの逸話が残る。また“監獄部屋”と呼ばれる劣悪な建設現場から逃げ出した工夫を義侠心から匿い、現場を仕切るヤクザと話を付けて助けてやったことが噂となり、盛平を頼って逃げてくる工夫が続出、それらの全てを助けたという。これが地元新聞に取りあげられ、盛平は「白滝王」と称され周囲の尊敬を集めた。

(Wikipediaより)

kyokoの偶偶石 23 ・・・・お豆たち

 本日日曜日は「偶偶石」の記事を書く日です。
毎週苦戦の末、記事を絞り出してきました。
「今日はどうしようかな??」
そんなことを思いながらも、まずは庭に・・。
気持ちの良い陽気だったのです。
せっせ!!せっせ!! ・・・・・そこに、娘と孫がやってきました。
私は庭の草取りを中断!!

娘が持って来たものは、さつまいものケーキに、大きなかぼちゃ!!
さつまいもケーキは、昨晩招いたお友達のために焼いたものだとか・・。

「おいしかったよ。」
と、余ったものを、持ってきてれました。
労働後の美味しいおやつとなりました。

孫が愛犬「ぶうたろう」に小さな欠片を分けてやったものだから、
ぶうたろうが、調子に乗っておねだり。
テーブルに足をかけ、舌をペロペロ出して、孫からのご馳走をねらっています。


かぼちゃは
「切ってほしい。」
と持ってきましたので、床に大きなまな板敷いて、出刃包丁振り落としながらカットしました。
種取りは、孫が手伝ってくれました。

 そうそう、本日の偶偶石を見ていただきましょう。
お豆のように丸くて小さいものばかりを寄せました。
娘が苦心してお皿に並べて、写真に収めてくれました。

  

  kyokoの偶偶石23・・・お豆たち

まあるいお豆

きれいなお豆

お砂糖まぶしたら甘納豆




ころころお豆

つやつやお豆

浜で拾ったかわいいお豆

似ている豆はどれかしら??

お豆図鑑で調べてみよう。

(画像は無料のイラストより拝借)
夕焼け

日没後、西の空がびっくりする程の朱色に染まりました。


「秋休み」という名のついた土日

2学期制

 わが職場では、2学期制といものが始まり、通信簿をもらって夏休みを迎えること、
通信簿をもらって冬休みに入ることがなくなりました。
そして、「秋休み」が新登場!
とはいえ、そもそもこれが導入されたのは、評価事務による短縮日課を減らし、授業時数の確保につなげる目的もあったため、悠長に秋休みを取ってはいられません。

週末休みにプラス1日ほど、計三日間ほどのお休みを作り、「秋休み」と称していたのです。

しかし、今年はコロナによる長期休業のロスを取り返すべく、夏休みは九日間でしたし、
このたびの秋休みは、通常の週末休みをもって学期間休業となりました。

週末休みは、あれもしたい!これもしなければ!と片付けたいことに思いが向くその一方で、
お休みなのだから、何もしない、追いたてられない時間も熱望するのです。

そんな気持ちの中で、
何をするか?
私はこんな記事を書いて、食卓テーブル上の”散らかり”をちょっぴりお片付けすることにしますよ!

取り置く行為

 普段きっちりと新聞に目を通さない私は、数日分の新聞をまとめて見る(読むというより見る)はめになります。
パラリパラリ。
「おお!!?」
と気になる記事があると切り抜いたり、それすら億劫な時はページごとよけたりいたします。
そうしてよけた新聞が食卓テーブルの隅に積まれています。
こんなことしているから、ますます片付かない!
雑然としている我が家です。

本日はその数枚を、ここに貼り付けて処分いたしますか?
大きい記事なので収まりきらず・・ですが、それでも一部をここに残しましょう。
そして、関連する過去記事など貼って、自分の記事を懐かしんだりいたしましょう。

「捨てない日常みんなで」

9月26日、先週土曜日の道新記事です。
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f:id:kyokoippoppo:20201003181316j:plain:left  目に飛び込んできたこの見出し。
そしてこんな写真。
札幌中央区の古いマンションの一室で、土日に開業するという「はかり売りとものさし トロッコ
をはじめ、「蜜ろうラップ」「ダーニング」などを紹介するものでした。

「トロッコ」は、「ごみの出ない店を自分たちで作ろう!」という志を掲げ、始めたお店だそうです。

「脱プラ!」などという掛け声は聞くものの、自分の暮らしを省みても、プラスチックの依存は根深く、ここから脱していくのは難しいな、と感じています。

物を買えばプラスチックは付き物で、普通の生活をしていればそれを避けて通ることは不可能です。
リサイクルに回すべく分別しておりますが、それが環境にベストとはいいきれない!!それも承知しております。

しかし、そんな現状を打破するべく”行動”し、魅力的な形で発信している方たちがおられることを知り、うれしくなりました。
貼り付け記事が不明瞭ですので、こちらも・・・




405.studio1065.com

こちら手作り石けんのお店「SAVON de SIESTA」さんのブログの記事の中に見つけました。
他の記事も美しく、興味をそそられました。
blog.savondesiesta.jp

SDGs

・・・で、本日はこんな記事を見つけました。

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道の駅「サロマ湖」のソフトクリームに添える木製スプーンの紹介です。
国連が提唱する『持続可能な開発目標(SDGs)に合致した事業だそうです。
imacocollabo.or.jp

課題はコスト面だとのこと。
プラスチック製のものより5倍近い価格になってしまうと書かれています。

それにしても、スプーンは木製でも、カップは・・・・・・。
そう、プラですから・・。
なかなか険しい道のりです。

それでも、少しずつ!!
それでも、一人ずつ!!

ですね!!
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コルチャックとピウスツキ兄弟 ⑦

同じ時代に違う理想を追って生きた3人
ヤヌシュ・コルチャック
ブロニスワフ・ピウスツキ
ユゼフ・ピウスツキ
彼らの年譜を並べてみるという試みです。

1935年までを綴ってきました。
1918年ブロニスワフ自死しており、
前回の記事の最後でユゼフも亡くなってしまったので、残るはコルチャック先生だけになってしまいました。
そのコルチャック先生も、10年後の第二次世界大戦終戦時にはこの世に残ってはいないのです。

 前回の記事最後の部分を、いくらか重ねて書き、改めてスタートしたいと思います。

1935年・・・・ユゼフ・ピウスツキ死亡

f:id:kyokoippoppo:20201002182941p:plain:w250:leftユゼフの遺体はクラクフのヴァヴェル大聖堂に、心臓は母親の遺体とともにヴィリニュスに埋葬されました。

ユゼフの死は、その後のポーランドの運命を決定づけてゆきます。
(大聖堂の写真はWikipediaより)







他民族国家を認め、ユダヤ人たちからも尊敬されていたユゼフの死はコルチャックにとっても大きな痛手となりました。



同年・・・・ナチスユダヤ人のドイツ市民権を奪う「ニュルンベルク法」を公布。

同年・・・・コルチャックによる、子ども向けのラジオ番組「老博士のお話」が始まる。
これは、ポーランド放送からの依頼で始まりました。
ユダヤ人であるコルチャックは最後まで「コルチャック」を名乗ることなくこの仕事を行いました。

彼の話かけるようなお話のしかた、聴取者からのないしょの話への心をこめた返事、一人ひとりの心をとらえる話しぶりに、小さな子ども、若者、親、先生、たくさんの聴取者からの反響がありました。彼は自分の考えを返事にまとめ、雑誌『アンテナ』に発表、それはのちに『楽しい教育学』として出版されました。

『コルチャック先生』より

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))

1936年・・・「老博士のお話」突然の打ち切り。
(その後、ポーランド放送は再びコルチャックの出演を依頼し、コルチャックはそれを受けています。)
       ポーランド人の孤児のための施設「ナッシュ・ドム」を去る。
20年に及ぶファルスカとの長く緊密な信頼関係は、彼女からの一方的な「手を引くように」という一報により断ち切れてしまいました。政治的な圧力があったと思われます。

二つのホームが姉妹校としてユダヤ人とポーランド人の子ども同士が往来し、交流する関係が終わりを告げることで、コルチャックは自分の立つべき位置を見失う思いがしたのです。

『コルチャック先生』より

1937年・・・反ユダヤ主義の高まるなか、ポーランド文芸「アカデミー」は、コルチャックに「アカデミー月桂冠」賞を与える。


ユゼフ死去から4年後・・。
1939年4月・・・ドイツはポーランドと結んだ不可侵条約を破棄。
同年8月23日、ドイツはソ連独ソ不可侵条約モロトフ=リッベントロップ協定)を結ぶ。
その際に両国間で交わされた秘密議定書においてポーランドの領土の分割を取り決めました。
同年9月1日・・・ドイツはポーランド侵攻を開始。
  9月3日・・・イギリスとフランスがドイツに宣戦布告、
       第二次世界大戦が始まる。
  9月17日・・・ソ連軍が東部国境より侵攻。

マリンカの母は、コルチャックがラジオ放送を通してあの明るく、頼もしい老博士の声で市民や子どもを勇気づけ、混乱を静めようと呼びかけるのを聞きました。
「落ち着くように、危険にさいしてどうふるまうべきか、抵抗と沈着な行動をー」
砲弾の音で放送がかき消され、放送局が閉鎖されるまで、彼は市民に語りつづけました。

『コルチャック先生』より

  9月28日・・・ポーランドは独ソ両国により分割占領され、再び地図の上から姿を消すこととなった。



記事を読んで下さった皆様、ありがとうございます。
たぶん次回で終了です。