私の希望、そして慰めだから…

 「いやあ、雲ばかり見せられてもな」
…そんな気分にさせてしまう記事になろうかと思います。
 こうやって発信する以上、受けとって下さるお相手の心持ちについて考えないではありません。
でも私自身の記録として、このように空を見上げて過ごしている日常を残しておきたいのです。

今朝、北窓からながめた空。
まずは一つ、



その後また一つ、




  


龍の形に見える雲を目にしました。

まあね、先が尖っていれば口になるし、長く伸びていれば胴体になる。
あとは角のようなとんがりがあれば、龍神雲の出来上がり。
同じものを他の人が見たところで、「龍」のイメージなど湧かないかもしれません。
私のひとりよがりな見方だといえましょう。
でも、私はそれをキャッチするや写真に収めたい。
そして良いものと巡り会ったと、安堵し感謝したいのです。

 朝の台所仕事の合間に見つけた雲は、玉子焼用の卵をカシャカシャとかき回しているうちに姿を消しでしまいます。
だからよけいね、
「絶妙のタイミングで出会ったわ!」
という気分になるのですよ。

退勤時は彩雲にも恵まれました。



ありがとう。
ありがとう。



 さてさて私、空ばかり眺めていればいるわけではありませんよ。
昨日から始めた不用毛糸の利用。

フロアモップ代わりのアイテム。これだけ作りましたよ。

今日の私の損得勘定

掃除かあ・・・

 都度都度記事にはしておりませんが、私、相変わらずスピリチュアル界隈をほっつき歩いております。
それに関する検索したり、You Tube見たりするものですから、関連のものが自然と目に入りもするわけで・・・・。
溢れかえる情報の海で溺れないように、気を付けてはおりますよ。
こんな日々の中、小林正観氏の
そわかの法則」というものもすっかり馴染みの言葉となりました。
そうじ、わらい、かんしゃ
の頭文字ですね。
それによって良き人生を開こう!というメッセージです。

 笑いやら感謝やらは心持ちを指しており、ソファに座りながらでもそれに近づくことは可能かと思います。
が、「そうじ」となればそうはいかない。
実際に身体を動かし手を動かさなければなりません。
そしてそれは、心地よく達成感を味わえる作業なはずなんです。
が、私、あまりここに労力使っていない。
物を減らして、掃除しやすい環境を作る必要性を感じながらも、動きは鈍い。

 さて昨晩布団の中で、
「何を片づけよう。」
と考えて思い浮かんだものがありました。
何とも小さい小さいお片付け。
いや、これに「お片付け」のネーミングすら付けられないわね。

そんな作業を紹介しましょう。
ジャジャーン!

これのどこが片づけなのやら?と思われることでしょう。
在庫の毛糸を減らすための作業です。
どぎつい色のアクリル100%の毛糸。
不用ならば即ゴミ袋へ投入すれば良し!
なのにそれができない私。
エコスポンジはいくつかこしらえましたが、いっこうに毛糸は減らず。
ならばと思いついたものがありまして。
このように、制作中なのであります。

それがどうなるかというと
こうなる。


これで部屋の埃やブウタロウの毛をかき集めるのです。
どうだい?

 でも…
雑に雑に編み進めるも30分程はかかった作業。
いざ使用!と、床をぐるーとなすってね、裏返してさらにぐるーっと回ったところで、10分とかからず処分となる。

これ、時間を損していると考えられますよね。
ソファに座って編んでいる時間をもっと、実質的な掃除の作業にしたほうが賢くないか?

ということ。

クリーニング

が、が、が、
なんちゃってスピリチュアリストのkyokoはこの時間をね、有効利用するのです。
お分かりかしら?
「〇〇〇〇〇〇〇」
「〇〇〇〇〇」
手離すことが必要な私の中の様々な記憶や、こだわり、感情のクリーニングにあてているのです。
編み編みのリズムに合わせてね。
クリーニング=お掃除ですことよ!
時間を損したとは思わずに、有益な時間を得たということで、今記事のタイトルとなりました。

 この手の言霊実践は、「これですぐさま確かな幸せ」と謳う言説も多く見られるものの、実は期待を抱かず実践を重ねることが肝心なのです。
いやあ・・そうは言っても何かしらを望むからこれを行うのであって、
実際期待を外して行うのは難しいといえば難しいのだけれど、
多くのスピリチュアリストが語るように、大きな存在に任せるとか、導きを感じで安心するとかには、程遠い心境の私だけれど、
私は大切な唱え言葉とともに日常を送っています。

夢という宝物・・・吉でも凶でも・・・・

 今朝の夢。
空から大きな轟(とどろき)が降ってくる。
あまりに大きな音。
爆撃か?天変地異か?
そらを見上げるも気配無し。
再び聞く大きな音。
再び空を見上げるも気配無し。
子どもたちはとりあえず集団下校となる。
ひとりひとりの子どもたちを確認するも、児童の名前が思い出せない。

そんな夢。
音の印象が強い夢は初めてかもしれません。
夢判断によると吉凶混ざっているようですね。

まあ、夢解釈もあまり振り回されずにいたいもの。
そうすれば、夢のストックは私にとって宝箱のようなものなのです。

自分に元気を

 本日2月29日。
気温の乱高下に翻弄された2月でしたね。
当地も、気味悪いくらい暖かな数日があった後、ズドーンと冷え込みました。
マイナス15度を越え、さらに風も強まればその冷たさに身が縮みます。
さらに内陸部では、マイナス20度30度というところもありますので、その地方の方にとってはマイナス15度は音をあげるレベルではないのでしょうがね。

 それでも3月がやってきました。日の出の時刻は確実に早くなりました。
今朝の光が出窓を明るく照らしました。
私はスマホを手に近づき、水色の瓶の上の乗せたサンキャッチャーのようなガラス玉の様子をカメラに収めることにしました。

というのもね、今朝の夢・・ちょっと不穏だったのです。
地平線から真っ黒な雲がむくむくと湧き、晴天を覆っていくというもの。
たかが夢・・・しかしその印象が私の心に残り続けていたのです。
それを払拭したくなったのです。
美しいものを見て、自分をいくらかでも元気づけたかったのです。



 大抵歩いて出勤するのですが、本日は所用があったため車出勤。
退勤時は気温も上がり、日差しも注いで暖かく感じました。
冬を過ごすうちに、身体はマイナス1度は暖かいと感じるようになるのです。

そんな日差しの中、農協店舗で買い物。
せっかく車を利用しているのだからと思い、ちょいと遠回りをして河口が見渡せる橋の上まで行ってみました。

湧別川河口の景色です。
氷の上に雪が積もり川は雪野原のようですね。
さらに先の氷ががたがたになっているところが、接岸している流氷です。
水平線までびっちり白い氷です。

橋の反対、西側の欄干へより雲をパチリ。
ちょっと無理があるかな?
龍神様?
首が頼りないのだけれど、顔に目玉がついているように見えるものですから…。

kyoko!
元気だせ。
春がやって来るよ。

遠軽駅前駐車場にて

遠軽へ 

 2月23日のこと、義母が注文した毛糸が届いたということで、遠軽駅前の手芸屋さんまで車を出してやりました。
駅前で車を止めると義母は
「一人で平気」
と降りて店内へ。
私は車でぼんやり待っておりました。
石北線のキハ40の運行の終了が目の前とあって、カメラやスマホを掲げた人たちを数人見かけました。

普通列車石北線釧網線の快速・普通列車すべてをH100形電気式気動車に置き換え
石北線(上川~網走間)と釧網線にH100形を投入し、キハ40・54形をすべて置き換える。H100形で運転する列車については、各駅でボタンを押してドアを開閉し、乗り降りする方式とする。

石北線と釧網線のキハ40・54形がH100形に置き換え! 【2024年3月ダイヤ改正】JR北海道 | 鉄道ホビダス


我が職場にも鉄道ファンの方がおられてキハの「キ」は気動車のキ
「ハ」は座席のグレードなのだと聞いたばかり。

かつて日本の列車は3つの等級に分けられていて、優等な順から「イロハ」で数えられていたとのこと。一等車、二等車、三等車・・松・竹・梅みたいなものですね。1960年代に、一等である「イ」がなくなり2階級の区分となり、今は「ロ」「ハ」が残っているのです。
ってこれきっと皆さん知っていらっしゃることなのでしょう。

私は鉄道や駅の佇まいには気持ちをそそられますが、情緒的な気分止まり。
キハ」の意味も初めて知った次第です。

駅の思い出

 そもそも北海道に嫁いで以来、非日常の場面でしか鉄道を利用いたしません。
それでも、丸6年のブログ生活の間に顔をのぞかせたうちの数枚を、再掲載させて下さい。

この遠軽駅の絵は、ある方が水性ボールペンで描いたものです。
北海道新聞に掲載されたものをコピーし、これも子どもたちのアルバムに使いました。
今は高速バスという交通手段もありますが、JR遠軽駅は長らくここと札幌をつなぐ玄関口でした。
故郷を離れるとき・・・我が子たちはこの階段を上がって旅立っていったのです。
駅までの送迎をする私は、この階段を昇って姿を消す子どもの後ろ姿を様々な思いで見送ったものです。




出発するや、気動車は早くも山間部へと向かいます。
湧別川に沿うように…、深い木立のトンネルを潜るように鉄路が続くのです。


JR北海道石北線・・・・夏の「遠軽駅」の背後には、緑あふれる山が迫っております。
8月5日・・・私は久々にこの駅に参りました。
娘と孫を迎えるためです。

空からのプレゼント

 さて、23日の遠軽駅前に戻りましょう。
彩雲が現れたのです。
急いでシートベルトを外し、後部座席からスマホを取り出しました。
パシャリ!
さらにフィルター加工したものがこちらです。

彩雲を鮮やかに写真に収めるのは難しいなあ。


そして本日
久々に龍神雲と出会いましたよ。明け方の北の空。

ぐるりとU字に曲がった胴体。
大きな雲でした。
ありがとう。
ありがとう。
大きな慰めになりました。

季節の扉

図書館へ 

 早くも2月の半ばとなりました。気温の高い日が続いています。
スキー学習の助っ人になるべくスキー板をゲレンデの保管庫に運び込んでおりましたが、結局当日はスタッフに恵まれ、出番はなく終了しました。
そのため午前中、板を回収するために車を出しました。
ついでに、ガソリンのセルフ給油も済ませました。レギュラーの価格がリットル170円という高値。
さらには米10キロを買い、食材も少々。所用が済んだので最終目的地、町の図書館へと向かいました。

 現在手元にあるのはこれら。


書くことの不純』は先週借りていたもので、現在読み進めているところ。

以前記事にした『極夜行』の著者、角幡唯介によるものです。

kyokoippoppo.hatenablog.com
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 『魔女のひきだし』は、ご自由にお持ち帰り下さいコーナーにあった1冊です。
除籍された古本がロビーにたくさん置かれていて、時々掘り出しものが目に入り持ち帰ってくるのです。
カウンターにて、
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』をリクエストし、
借りた本たちを手に、まぶしい外へと出たそのとき、青空に嬉しいものを見つけました。
数羽の白鳥です。
例年にない暖かさに誘われてか、先発隊の白鳥たちが戻ってきたのです。
冬の寒さは、まだしばらくはぶり返すことでしょうが、「春の使者」は北国にもいよいよ姿を見せ始めたのです。

おろかもの

 帰宅後、『魔女のひきだし』を一気に読み終えました。
魔女にまつわるお話が綴られたエッセイ集。
角野栄子氏は言わずと知れた『魔女の宅急便』の作者ですね。

魔女のひきだし』には、魔女にまつわるお話が18話収められています。
その中のひとつ「おろかものたち」について触れたいと思います。
 
 ドイツの黒い森地方で行われる祭りについての文章です。
その祭り、バード・ヴァルゼーの前夜祭には市長が町の鍵を、「おろかもの(カーレン)」に渡すという儀式があるのです。
祭りの間だけは誰でも町への出入りが許される・・・・それを表す儀式だとのこと。
祭りの日は、「おろかもの」に扮した人々が様々な仮装をして現れます。

長いむちをふりまわし、ヒュンヒュンと音をたてる。鈴をいっぱいつけた肩から胸へと交差してかけられたベルトが、足をふみならすとシャンシャンと軽快に鳴る。いずれも春を呼び込む音だという。

この異形のものたちは何者なのだろう。

角野氏はこのように問います。

暖かい春を運んできたり、秋の豊かな実りをもたらすものも、「人の力」をはるかに越えた彼らなのでは?
と書いています。
その力が反対に働けば、大変な災害になるものの、人はそれを退け、しめ出し続けるわけにはいかない。
季節の変わり目に、「おろかもの(ナーレン)」に鍵を渡し町に受け入れ、共に楽しむのではないだろうか?
彼女はそのように書いています。
さらに、「おろかもの(ナーレン)」の中には魔女も含まれているのだろうと続けています。

マクベスに現れる魔女のせりふに、
きれいはきたない、きたないはきれい」というものがあるそうです。

きれいなものは人の喜びなのだ。そしてきたないものは、きれいを支えている。それが命あるものの生きている世界なのだ。

白鳥を見たその日に手に入れた本。
そしてその中のエッセイ。
春の気配を感じた良き日曜日でした。
そしてこの本は『日本人は何故キツネにだまされなくなったのか
にも通じるように感じています。

狐はね…

 私がお邪魔するブログにて、
始まりの木』についてを話題にする方がおられたので、私も…と手に取り読んでいるところです。

民俗学を真摯に研究する、頑固で偏屈な民族学者「古屋」と、門下の院生「千佳」のフィールドワークを物語った作品です。
現代にかろうじて残されている「民俗学的な聖地」を尋ねる二人。
そこで織りなされる人との交流、さらには人ならざるものとの交流が描かれています。

 古くから自然の中や、またその営みの中に神聖なものを見出してきた日本の人たち。
地域のなかで守られてきた風習や、生活の智慧を大切に伝えてもきたのです。
しかしそれらは、産業の発達、経済優先の生き方、成長のために走り続ける日々の中で急速に輪郭を失い、朧げにかすみ、姿を消しつつあるのです。
それらに価値を見いだし研究したとて、就職には全く貢献しない。
それを知りつつ、その魅力につかまってしまった稀有な人たちが登場する物語でした。


 本のページを進めながら、はるか昔の小さな出来事が思い出されました。
まだ長男が生まれる前、もしくはお腹にいた頃ですので、40年も前のことになります。
その頃の住まいは町営住宅。
粗末な四件長屋でした。
隣りには一人暮らしのおばあさんが住んでいました。
「お◯じ」さんという変わったお名前の方でした。
賢く物知りなご老人でした。
どんなきっかけだったか?交流が始まりましてね、時々お邪魔してはお茶を飲み飲み話を交わしたのです。
ある時、お◯じさんは、道に迷ったときの話をされて、
「狐に化かされた。」
そう言ったのでした。

私は
「狐ってだますんですか?」
と聞いたのです。
するとお◯じさんは、深く深く頷いて、
「狐はね…だますよ。」
とゆっくりと答えたのです。
その確信に満ちたお◯じさんの声がとても印象深く、記憶に強く残っているのです。
『始まりの木』に狐にからむ話は出でこないのですが、そんなことを思い出したのです。
興味が向いて「狐」「化ける」と検索したところ次のような興味深い記事を見つけました。
news.kodansha.co.jp
一部を下記に貼りました。

内山さんは単なる“自然賛歌”“自然に還れ”といっているわけではありません。私たちを包み込む自然が同時に“荒ぶる神”であることを忘れてはいません。また「日本の自然は一面では確かに豊かな自然であるけれど、他面ではその改造なしには安定した村も田畑も築けない厄介な自然」であることもここに記されています。そしてその自然との交流のなかで村の在り方や、宗教なども生まれてきたのです。
このような多面的な自然を失いはじめたのが1965年でした。それを象徴するのが「キツネにだまされなくなった」という“事件”です。
そしてさらに内山さんは思索を続けます。「長い間、人がキツネにだまされつづけたということは、キツネにだまされた歴史が存在してきたと考えていいだろう」と……。それは「自然や生命の歴史」であり、それに包まれた「人間史」の発見です。

これはおもしろそうだ!!
図書館にリクエスト決定だ!!


 話は少々飛びますが・・私が、スピリチュアル的なものへの関心があるから余計にかとは思いますが、今は今なりに、「神様」や「見えない存在」への関心が高まっていると感じます。
ほら、雲の形に龍神様を感じたり…。
「風の時代」が話題となったり・・。
現代の人だって、そういうものと無縁って訳ではないと感じます。

ただ、ものによっては
巨万の富とか、
成功者とか、
何でも望み通りとか、
一直線に分かりやすいご利益に誘導するようなものもあって、そうなるとこれは民俗学で語られるような人々の信仰とは別物ですよね。

そう、本書の中にまるでスタンプラリーするように、車で寺に押しかけご朱印集めをする若者が出できましたが、このような向き合い方にならないように気をつけなくては…と私は思うわけなのです。
現代に生きる私たち・・・・。
神や仏、自然霊や妖精、聖霊たちとどのように向き合うことが可能なのかな?
目を向けていきたいです。

 
 最後に、美しい月が浮かぶ2月12日の夕空をここに残したいと思います。
新月後の月はどんどん太くなっていて、ここで貼らないと機会を逃してしまいそうなので・・。
再生直後の細い月の姿、キャッチできましたでしょうか?

ノンフィクション作家が残した言葉

 現在手元にある本たちです。


『ラウリ・クースクを探して』(記事には残しませんが良書でしたよ。)
『夜明けを待つ』は読了。
次なる1冊『始まりの木』を手元に寄せる直前の私です。
その前に、ノンフィクション作家佐々涼子氏の『夜明けを待つ』にて、少々足を止めることにしました。

心に残った文章を切り取って残しておきたいのです。
感想文未満のメモ的な記事となります。

この作家さんのことは知識がなく、本書はたまたま図書館で目に入ったために借りてきました。

生と死を見つめ続けてきたノンフィクション作家のエッセイとルポルタージュ作品集・・・
なるほど良いかも、という気分で。
手元に寄せてから、著者の紹介欄を読み、『紙をつなげ!』を以前読んでいたことを思い出しました。

『夜明けを待つ』

第1章はエッセイ多数
第2章はルポルタージュ9作品が収められています。

エッセイはどれも滋味深く味わうことができました。

たとえ私がいくら死んでしまいたくとも、体は生きているだろうし、私がまだ生きたいと、いくら願っても、時が満ちれば死んでいく。そう思うと、私たちが「私」と思って後生大事にしているものには実体などなく、「私」というのは、私たちとはまったく別の都合で動いている世界がつかのま見る、短い夢のようなものなのかもしれない。

現実だけを見つめて書いてこられた佐々氏が語る言葉に、スピリチュアル的な要素を感じました。

 彼女は「禅」に興味を持ち、福井県の清涼山天龍寺で、「初心指導」に参加し、その体験もルポルタージュ作品に残していらっしゃいます。

「須らく回光返照の退歩を学ぶべし」
禅はこの先の未来を指し示すことができるだろうか。「退歩」することもまたひとつの進歩なのだと認められるほど、はたして社会は成熟することができるのだろうか。

人の生き様を見れば見るほど、不可思議な世界が現れ、「生きる」ことの中にあるスピリチュアリティに触れることになるのでしょうか?


禅、仏教、宗教に興味を持ち、それに関する体験も豊富な佐々氏です。
しかし、彼女の足は常に現実という地面に据えられています。

ある時彼女は、バングラデシュの長老に会う機会に恵まれます。
どんな智慧を授かることか?と期待を寄せる佐々氏。
長老はどうしても伝えたいことがあると言う。
彼女はひざまずきその言葉を待ちました。

その佐々氏に対し長老は、‘’このうえなく所帯じみた願い‘’(ドネーション)を寄せたのでした。

人は霞を食べて生きてはいない。虚構の中で、ひとかどの人物になったような気がしているとすれば、それは錯覚だ。

私は、祈り方すら知らない人の中に、奇跡を見る。

ルポでは、移民たちの現状や、それを受け入れる日本の現実を垣間見ることができました。

今やそれ無しでは経済が成り立たない日本の現実。
そこへ技能実習という名目でやってくる外国の人たち。
日本語学校での教師の奮闘や、彼ら彼女らが働く現場の現実。
これらも大変興味深かったです。



ここに収められた全ての作品を読み終え、あとがきへ。
ええ!?
佐々涼子の命がわずかしか残されていないという事実を知ることとなります。

二年前の著書『エンド・オブ・ライフ』では、在宅の看取りをテーマに訪問看護師の故・森山文則さんの終末期を書かせてもらったが、何の運命のいたずらか、今度は私が終末期の当事者となった。

彼女は希少ガンであるグリオーマに罹ってしまったのです。

本書の中で

私がまだ生きたいと、いくら願っても、時が満ちれば死んでいく。

と綴った佐々氏ですが、まさしくそれを体現するようにご自分の現実を静かに受け止めていらっしゃるように感じます。

佐々涼子氏の未読の作品も、追い追い読んでいきたいです。

そして今晩からはワクワク・・・『始まりの木』を開きます。

* * * *

2月9日朝の雲です。
龍の姿というには首から後があいまいですが、私が
「ぬぬ!」
とキャッチした痕跡を大事にしたく、ここに残します。
2匹の龍が西を向いております。