『ティー時代の子育ての秘密』
ようやく手元に届き読みました。
う~~~・・・・・・・む
これは・・・・
なんだか、混沌とした空間に放り出されたような感じがします。
足場を定めにくく、視点をどこへ向けてよいのやら?
『ティール』については、本書に先立ちネットで検索をかけては目を通していたので、内容は想定されたものでした。
しかし、それを理解できたのか?
「分かる」のか?
となると別問題!
これは簡単には理解できない代物ですぞ。
ジャッジフリーという言葉を、ひとまず歓迎した私でしたが、これって実は容易いことではない。
kyokoippoppo.hatenablog.com
自分の有り様がジャッジされないことは歓迎しつつも、
他者をジャッジせずにはおれない姑息な自分が確かにいて、
何故そうなのか?を知ることは、ネガティブな自分との対面になるかもしれないからです。
いえ、そもそも「何故そうなのかを知る」なんて次元には行き着かない可能性の方がよっぽど想像容易です。
本書を読み終えそのように思いました。
でも、だからこそ、そこに気持ちが向かいます。
理解に向けて漕ぎ出してゆこうという思いが湧きました。
と、いうやや長い前置きの次に
長男Hの新曲を貼り付けることにいたします。
www.youtube.com
今回もボカロ曲に取り組みました。
前回の作品『恋愛フィロソフィア』は、You Tubeでの再生はいまだ100をようやく越えた程度ですが、
ニコニコ動画の方では躍進し、1万回を越えて再生されました。
You Tubeとニコ動でカウントの仕組みが違うのかもしれませんが、仮にそうであったとしても、このボカロ編曲作品が、ニコ動視聴者により好まれたことは確実です。
Hにとっては、このような手応えはやはり嬉しいことで、続けてボカロ曲をアップしたのだと思います。
ここには、You Tubeを貼りますね。お聴きいただければ幸いです。
(こちらもまたまたニコ動で躍進!!すでに一万再生を越えました。)
私の歩みの中に
さて、何故「ティール」とHの編曲作品が一つの記事内で抱き合わせになったのか?
と思われますでしょ?
『ティール時代の子育ての秘密』は、先程書いたように、簡単に理解できる代物ではありませんでした。
分からないながらも、理解に向けて漕ぎ出そうとも書きました。
が、実は、かなりの昔から、私はこのエリアの周辺をウロウロしていたような気もするのです。
その場所を俯瞰できませんでしたので、私は目の前の景色の前で、ただただ闇雲に右往左往していたわけですが、そんな見通しの悪い藪のそばには、『ティール』に続くかもしれない細い道が隠れていたように思うのです。
今までの私の歩んだ道の中に、そんな私に育てられた子どもたちの歩みの中に・・・・・
たくさんの雑多な混じり物と共に、『ティール』の欠片のようなものがありそうで。
それを拾いつつ『ティール』とは何か?
を新たに探っていきたいな!
と思っているのです。
かなり混乱すると思うし、未整理のままのものを投稿することもあるかと思いますが、ぼちぼち書いてゆきましょう。
また、番号はふってゆきますが、飛び飛びの気が向いたときの発信になると思いますよ。
たから「ぶらぶら旅」というタイトルにいたしました。
(もしかしたら、途中で手放してしまう可能性もございます。)←弱気な私がいる
『ティール時代の子育ての秘密』の中には、
人の教育に必要なのは、意思のはっきりした子どもを育てることだ。
という記述があります。
それは、
人が生きる上での土台となるものであり、脳科学でいえば、爬虫類時代までに発達し、生命活動や情動、直感的などを司る「古い脳」の機能
なのだそうです。
一方
猿から進化したときに急激に発達したのが、「大脳新皮質」で、それは論理、言語、理性などを司ります。
これは土台の上に立つ建屋のようなもの。
土台がしっかり育っていないところに立派な建屋を建てても「まとも」に育たない
と、天外氏は述べています。
これは、脳科学などまだ出現していなかった、シュタイナーやモンテッソーリの時代に、彼らは直感的に把握しており、いまの言葉でいえば、「古い脳」がしっかりと発達するような教育学を提唱しました。
シュタイナーの教育は、これから展開してゆく『ティール時代』の教育のあり方に添うもののようです。
「シュタイナー教育」
シュタイナー教育
これは私が一時期強く憬れたものであり、Hの人生にも大きく関わったものです。
過去記事で書いておりますので、ここで細かな経緯を書くことはひかえますね。
(下記の記事・・・・自分にとっては辛い内容であり、改めて読み返しますと、ここでの決意が立ち消えになっていた現実にも直面します。)
kyokoippoppo.hatenablog.com
雑多な混じり物の中にある欠片というのは、このようなものです。
欠片のまま置き去りにされているこのようなものたちです。
いくら拾い集めても形にならないかもしれませんがね。
人が人としてまともに育つとはどういうことなのか?
を、ティールという視点を拠り所として改めて学んでみたいのです。
それは、つまり、私が人としてまともに生きるための役立ちになりそうだからです。