自分の歩みとして…①

 スピリチュアルに関連するこのような記事を、書き残したいと思いつつも、なかなか踏ん切りがつかなかったのは、自分の中に未整理な部分が残っていることに加え、やはり他者の反応が気になったからです。
 何を今更?と思われるかもしれませんね。
これまで「スピリチュアル」に関わることをことさらに封印してきたわけではない私。
ここ数ヶ月は、雲の形が龍に見えれば「龍神」と称しアップしてきましたし、彩雲や虹の出現を気象現象以上のものとして喜ばしく受け取り、報告してきたわけですから。

 数ヶ月前に前のめりな気持ちで1回書いて、すぐに取りやめた
「スピリチュアル界隈」を巡るkyokoの物語。

kyokoippoppo.hatenablog.com
kyokoippoppo.hatenablog.com
しかし、kyokoはその界隈を未だ巡っているのです。

 そこで得たもの感じたことを、折に触れて書き、足跡として残しておくことにしました。
先に書いたように、数日間躊躇いの中を漂いました。
「スピリチュアル」に引き寄せられる自分が他者にどう思われるのか?
では、何故ここにおいて私は、「他者の反応」を気にするのか?
この「何故?」に私の持つ種があるように思うのです。

生きてゆくのに「スピリチュアル」を必要としない人はおおぜいおられる。
それでも、明るく安定した暮らしを営んでいらっしゃる。
もちろん明るく安定した生活の中にもままならないことは発生しているはずですし、悩みを抱えていないとは言い切れないのですが、生きていく上で「スピリチュアル」は必須アイテムではないのです。
片や生きていく過程で「スピリチュアル」に引き寄せられる人々も一定数存在します。
絶対とは言い切れませんが、多くの方が
不安から脱したい!
苦痛から逃れたい!
幸せを手にしたい!
という願いを強く持っているように思います。
もちろん私もその一人。
場合によっては藁をもすがる思いでそれを求める方もおられるわけです。
結果その界隈で難民化し、果てにその人にマッチしない館に入り込み、グル的な存在に取り込まれてしまったり、セミナー料や、グッズや、アイテムやらを求めすぎて、身動きが取れないという末路に追い込まれることもあるようです。

私の躊躇は、自分がそんな‘”危うい人”に見られないか?
現実から遊離して曖昧な世界を彷徨う”痛い人”に見られないか?
という怖れから生まれているのです。
ということはそのような眼差しを私自身が持っていることの証でもありますね。
ても、そのような眼差しを携えてこの世界をのぞき見ることは決して悪いことではなく、寧ろ安全歩行に必要な姿勢だと感じております。

 スピリチュアルは目に見えない領域を扱う分野です。
潜在意識とかいう、そもそも人が感知できない領域を語る分野です。
生前の記憶、生まれてきた時の約束、死後の世界、霊の世界、神様、龍神様…。
在るのか無いのか?
居るのか居ないのか?
信じて良いのか悪いのか?
そのようなものが扱われている領域なのです。
未知なものに溢れており、私のようなものが、迂闊にさまよえばあっと言う間に迷子になりそう。

しかし、私はそこに興味を抱き、足を踏み入れました。
私はきっとそういうことに関わる人生を選んできたのだ、と思うことにしました。
まだまだほんの入り口です。
入り口だから安心でもあり、入り口だからまだまだ何も分かっちゃいない。

そんな私の「今」をやはり時々は発信していくつもりです。
それは、何より自分のため。
自分の居場所に、まずはしっかりと錨を下ろして固定するため。
この界隈において、私の居場所は「ここです。」と確かめるため。

そこの景色をしっかり眺め、自分の感覚とすり合わせるため。

この記事(ブログ)をそのためのツールとして使います。

自分の実生活の陸地に港を持ち、灯台を設置し、安全に行き来をするつもり。

「スピリチュアル」に関する記事を時々綴ります。
私が私のために書き残すもの。
苦手だな、と感じる方はすっ飛ばして下さいね。
 

 先週金曜日は学園の第1回卒業式でした。
素晴らしい式でしたよ。

壇上に飾られた花をほんの少し分けてもらい、持ち帰りました。